関取花
自虐をやめた日
2025年5月7日に“関取花”がニューアルバム『わるくない』をリリースしました。今年2月に独立を発表した彼女が自身のレーベルより発表する第一弾目のアルバム。全7曲が収録されております。
さて、今日のうたではそんな“関取花”による歌詞エッセイを3週連続でお届け。第1弾は収録曲「 わるくない 」にまつわるお話です。空気を読むため、その場に馴染むため、やっていたはずの自虐ネタ。それを“やめた”理由とは。そしてやめてみて気づいたことは…。
ある時から、私は自虐ネタを言うのをやめた。とはいえ、日常のちょっとした滑った転んだ話なんかは全然する。失敗談というのは誰かに話すことで明るく昇華できたり、次からどうするべきかの課題に気付けたりするから、そういう話は今でもよくする。でもそれはあくまでも、「この前こんなことがあったんですよ」という出来事の話であって、「私ってどうせこんなんだから」という根本的な自分自身の人格を下げる話ではない。そう、私がやめたのは後者の方である。
自分で自分を下げることでその場をしのぎ、インスタントな笑いを得る。それによって空気が読める人だ、扱いやすい人だと思ってもらえることは正直ある。"キャラ付け"はわかりやすいほどコミュニケーションが円滑に進むから、面倒な相手の時ほど私はそれを率先してやってしまっていた。
つまり、「この人にこういう風にいじられたり接されたりしたら嫌だな」と思う相手に対して、先手を打つという手法である。その方が外面ではへりくだりながら内心マウントを取れるから楽なのだ。「はいはい、こうすればいんでしょ」、「私なんてどうせ○○なんで」と、言われる前に言われそうなことを自分で言っておくという防御だ。いや、防御という名の見えない攻撃でもあった。
その方向でやると決めたら人間というのは不思議なもので、心のどこかに蓋をしたまま案外突っ走れるものである。大体そういう振る舞いをしてしまうのは長期的な関係性を望まない相手や場の時だから、ある意味、短距離走のようなものである。とにかく今、今さえ走り抜けられれば、と。でも下手くそなフォームで一気に負荷をかけるとどうなるか。その時は騙し騙しなんとかなっても、結果ボロボロになる。
悲しいことに大体の場合それは上手くいった。笑顔の作り方もちょうどいい会話の温度も、それっぽくその場に馴染む方法も、歳を重ねていけば教科書的に学ぶことができるのもまた人間で、「こういう子が一人いるとやりやすいよね」とありがたいことに言っていただけたこともある。
しかし、問題というのは決まって後からついてくるものだ。私たちはいつだって、少し時間が経ってから自分をすり減らしていたことに気づく。他者との関係性が一切発生しない、たった一人で過ごす孤独な時間に、ふと我に返る。帰り道で、湯船で、トイレで、ベッドの中で、「なにやってんだろう」という言葉が一粒の涙となって現れる。
空っぽになった心には四季を問わず冷たく乾いた風が吹き込んできて、雑に過ごした一日を思い返しながら、あらゆる人とのやりとりを反芻する。自分の一挙手一投足に後悔をする。もちろん、相手のことを恨みそうにもなる。「そもそも私にあんな振る舞いをさせたのはあいつらのせいだ」、と。
でもその時に気づく。その"キャラ付け"を先に提案して促していたのは自分自身だったかもしれないということに。
もしあの時、周りの空気や雰囲気に負けずに、あとほんの少しでも自分が誇り高くいられていたら。ちゃんと「嫌だ」と言えていたら。それによって多少、「あ、そういう感じですか」と思われたとしても、恐れず自我を保てていたら何か違ったのではないか。少なくともこんなにトゲトゲになるまで心を変形させずに済んだのではないか。というか、それさえできていたら相手も、「なるほどそういう感じね、言ってくれて助かったよ!」となって、なんなら仲良くなれた可能性だってあったじゃないか、と。
ひょっとしたら、誰もわるくなかったのかもしれない。私は私がこれ以上傷つかないために、自分を守るのに必死だった。傷つけられた過去があるから守ることを覚えたのは紛れもない事実で、必要なことだったとも思う。相手も相手で、そんな私の振る舞いを見てどう攻める(ここでは接するの意味)か考えた。その結果、何かが行き違って、すれ違って、時には傷にもなった。互いの心の中なんて本当の意味で読めるわけなんてないので、出方を見て振る舞い合った結果、というだけの話なのかもしれない。
そうして過ぎ去った日々や関係性を、無理に取り戻そうとするのも野暮である。私たちはただその経験を胸に、前に進むしかない。いや、前に進めばいいのだ。それをいつか違う誰かへの学びや優しさに変えられたら、きっと意味はあっただろう。あの頃、悩んだ時間も乗り越えた自分もたしかに必要なものだったと、最終的にその先にある今が「わるくない」と思えたら、上出来じゃないか。目先の修正も大事だが、最後に残るもの、残したいものをそうやってぼんやりでもいいから見つめておけば、きっとこの先、大幅に道を間違うことはないはずだ。
もちろん、圧倒的に誰かが悪いということも往々にしてある。一方的な勘違いで攻撃をしてきたり、こちらがきちんとメッセージを発信しているにも関わらず自分本位なコミュニケーションをとろうとしてきたりする人は、残念ながら一定数いる。そういう人からは黙って距離を置けばいい。こちらが盾も剣も掲げる必要ないくらい、とにかく遠くに逃げる。それはそれで仕方のないことだし、相手からしてみたらそのような自覚のないことだってある。正論や正義というのは本当に人それぞれだから、説得すればいいという話でもなかったりする。両者共に、「相手が自分の思うような振る舞いをしてくれるとは限らない」ということにいつか気付けたのなら、それでいいんじゃないかと思う。
「あいつがわるい」、「こんな自分が全部わるいんだ」とあまり思いすぎないで生きる毎日は、なかなか清々しいものである。私の場合それに気づけるまで長い時間がかかったが、間違いなく必要な道のりだったとも思う。今はそんなに、わるくない。
<関取花>
◆紹介曲「 わるくない 」 作詞:関取花 作曲:関取花
◆ニューアルバム『わるくない』
2025年5月7日発売
<収録曲>
1.わるくない
2.VRぼく
3.いつかね
4.空飛ぶリリー
5.安心したい
6.二十歳の君よ
7.会いたくて