hoge
ハルカと遥
2026年4月8日に“hoge”が新曲「2000年経って feat.結芽ひなり」をリリースしました。現役音大生のかけだしシンガーソングライター“結芽ひなり”をフィーチャリング。hogeから溢れ出した、“間違いを繰り返し、何者かになろうともがくあなた”の今を肯定する曲が、結芽ひなりの温度が確かに伝わる痛快な歌声に乗って世に放たれていきます。
さて、今日のうたではそんな“hoge”による歌詞エッセイをお届け。綴っていただいたのは、新曲「2000年経って」のきっかけとなった短編小説『ハルカと遥』です。“選択”がテーマのこの歌の背景にはどんな物語があるのか…。ぜひ、今作とあわせて受け取ってください。
2000年経って
こんにちは、nasuo.sinoです。
音楽×短編小説プロジェクト・hogeで活動しています。
4月8日に新曲「2000年経って」をリリースしました。
今回の作品は、“選択”がテーマです。
多様な選択肢がある現代は、自由で、時に不自由です。選んだ道を“間違い”だと悔やみ、大切なものを失うこともあると思います。
しかし、その決断は間違いなく当時の自分にとっての“正解”であり、その喪失の先でしか出会えない縁があるはずです。
間違いを繰り返し、何者かになろうともがく僕たちは、神様から見れば最低傑作かもしれません。でも、不幸の底には必ず小さな幸せが落ちていると思います。
下記はこの曲のきっかけになった短編小説です。
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『ハルカと遥』
1
騒がしい夜の街に軽快なヒールが鳴り響く。
「あの子可愛いな」
「顔ちっちゃ」
「モデルさんかな?」
「足細っ」
ざわめきが、彼女を追って夜の街へ流れていく。彼女がヒールの音を一つ立てるたびに、ネオンの明かりは彼女のためのスポットライトへと生まれ変わる。老若男女問わず、誰もが洗練された彼女の姿に釘付けとなる。一夜の愛と酒が入り乱れる雑踏の中、彼女に見惚れ、酩酊したようにぼーっと歩く男性が、不意にポケットから財布を落とした。それに気づいた彼女は、そっと財布を取り、彼の目をしっかりと見つめながら、美しい笑顔で彼に手渡した。
「あっ、あの!」
「お姉さん、名前は?」
敢えて視線を外して答える。
「ハルカ」
たじろぎながらも男性は勇気を振り絞って言った。
「連絡先教えて!」
彼女は振り返りながら答えた。
「またどこかで会えたらね」
彼女はくるりと振り返り、それ以上は何も言わせないように、再び夜の街にヒールの音を響かせる。
ネオン街を抜け、隣駅へと歩いていく。一駅違うだけで街の姿はがらりと変わる。往来する人々のむさ苦しい熱気から解放され、澄んだ空気が肌を撫でる。照らしている明かりは、街灯とコンビニくらい。ネオン街に目が慣れてしまったせいか、物凄く暗く感じる。この帰り道を通る時には、決まったルーティーンがある。路地裏に住む猫、「メメ」と会うことだ。
メメと言う名前は、私が勝手に付けて呼んでいる。真っ黒な姿に金色の目がパッチリとしている。その可愛らしい見た目からつけた名前だ。由来はたったそれだけ。この子が何歳なのか、誰かに飼われているのか、何も知らない。ただ、私がこの道を通る時、迎えてくれるかのように、必ず待っている。
GUCCIのカバンから猫缶を取り出し、蓋を開ける。まぐろ入り白身魚。色々な猫缶を与えてきた中で、一番食いつきが良かった味。メメはゴロゴロと喉を鳴らしながら、時折声を出して美味しいと伝えてくれる。嬉しそうに食べるこの姿を見て、今日あった出来事を話す。これが私のルーティンで、何よりも大切で幸せの時間。
メメとのお茶会を終えた後、駅前のロッカーから荷物を取り出し、漫画喫茶へ向かう。受付で会員証を提示し、漫画を取ることなく、そのまま用意された部屋へと向かう。荷物を置き、熱気のこもったウィッグを外す。忘れていた全身に溜まった疲れがどっと押し寄せてくる。ロッカーにしまっていた大きなカバンから、化粧落としと着替えを出す。コットンにクレンジングオイルを垂らし、ネオン街での熱い視線を噛み締めながら本音の顔を拭き取る。年季の入ったメガネをかけ、質素なシャツとジーパンに着替える。視界がクリアになり、重たい瞼が少し冴え、鏡に映る自分を見て日課のようなため息が溢れる。特に居座る理由もないので、荷物を片付けて、扉に手をかける。部屋を出ようとした時、「あっ」と声が漏れる。ヒールを履き替えるのを忘れていた。
建前の姿に戻ってから自分の家へ帰る。明日もある仕事の準備を終え、簡単に風呂と歯磨きを済ませ、ベッドに横たわる。自撮りした写真を見返しながら、今日の出来事を思い返す。財布を落とした男性の、あの焦った顔が可愛かったな。メメはやけにご機嫌で服に毛が沢山ついてしまった。段々と瞼が重くなり、寝息のような声で呟く。
「今日も僕可愛かったな~」
2
女装を始めたきっかけは、姉の悪戯からだった。中学時代の僕は、ほんの些細な出来事から学校へ行かなくなってしまった。
昼休み、教室からトイレへ向かうと、別のクラスの男子生徒の会話が聞こえてきた。
「三組の女みたいな顔してる奴知ってる?」
「あ~、あいつな」
「男なのに女とばっかつるんでて気持ち悪いよな」
「しかも名前が『遥』だって」
「もう女じゃん、オンナ男」
「気持ち悪りぃ~」
淡々と語られる自分の容姿への批判が、ナイフのように突き刺さる。徐々に呼吸が荒くなり、鮮明に鼓膜を震わせた。居ても立っても居られなくなった僕は、逃げるように保健室へ向かった。体調不良で早退することになり、次第に学校には行けなくなった。
陽の光が鬱陶しくなり、カーテンを閉めて外界の全てを遮断した。ベッドにうずくまり、枕に涙が染み込んでゆく。何もせずに寝たきりでいると、時間の感覚が分からなくなってくる。ただただ、止まらない涙と時間だけが流れていった。
姉はそんな僕にも気さくに声をかけてくれた。学校へ行っていないことには触れずに、友達の話や学校であった出来事、また男子に告白されたなど。姉は誰もが振り返るほどに容姿端麗。学校中の男子がそんな姉を見過ごすわけがない。姉が飄々と話すその姿に、どこか救われていたのかもしれない。
ある日、姉が僕の頭を見て言った。
「髪長くない?」
「うん」
「切らないの?」
「うん」
「じゃあ、メイクしよ」
「うん……えっ?」
姉は小走りで自分の部屋に行き、メイクボックスを持ってきた。それからはされるがまま。初めてファンデーションに触れた僕の肌が痒さを訴えた。しかし完全に集中モードとなった姉がそれを許さない。
「動かない!」
「上向いて!」
「顔触らない!」
鋭い眼光に見つめられながら繊細なタッチでアイラインが引かれる。慣れないマスカラとビューラーに呼吸を忘れていた。最後に薄紅色のリップを塗り、三十分ほど経った頃、職人が一作品作り上げたかのように誇らしげに言った。
「かんせ~い」
意気揚々と鏡を向けられ、何ヶ月かぶりの自分と再会した。
愕然とした。鏡に写る彼女が僕と同じ仕草をする。それは僕ではないはずなのに、紛れもなく僕自身だ。姉に似た顔つきのせいか、思わず「可愛い」と言葉がこぼれた。ぽかんと口を開けたまま姉に目を向けると、鼻高々と微笑んだ。
それからはメイクに没頭した。アイラインの引き方、自分に合うファンデーションは何か、髪型のアレンジなど。流行りのファッションも調べ、みるみる時間が流れていった。流石に両親に見つかるのはまずいと思い、寝静まった夜にメイクや髪型を研究した。母が起きてくる前にメイクを落とし、整えた髪型をわざと崩して、寝床へ戻る。そんな奇妙な習慣ができた。メイクを知ったことで少しずつ自信が湧き、自然と笑顔が増えていった。お化粧に慣れてきた頃、姉にメイク道具を買いに出かけないかと言われ、少し迷いが生じたがついていくことにした。
買い物の途中、姉が背中を突いて言った。
「そろそろ受験だし、学校行ってみたら?」
姉の言葉に心が揺らいだ。不登校になった頃に比べて、だいぶ気持ちが落ち着いた。受験が控えていることも、このままではいけないことも薄々感じていた。しかし胸が張り裂けるようなあの会話が頭の中で蘇る。
「……でも、この髪の毛じゃまた嫌なこと言われそう」
「ヘアメイクも出来なくなっちゃうし」
姉がマスカラを手に取りながら言う。
「遥はどう生きたいの?」
「女の子の姿をして生きていくのか、それともその姿を隠して生きていくのか」
「私はそのままでもいいと思うけど」
姉の優しさに視界が滲む。
「……分かんない」
「揶揄われるのは嫌だけど、できれば髪の毛は切りたくない」
「ふーん、それじゃあ……」
「そんなあなたにこれを授けよう!」
姉がカバンから取り出したのは、本物そっくりの綺麗なウィッグだった。
「私もたまに気分変えたくなった時に使うんだよね」
「これがあれば、髪の毛切ったっていつでも本音の姿になれるよ」
翌日、僕は覚悟を決めて髪の毛を切ることにした。寂しい気持ちで家に帰ると、姉がウィッグを持って出迎えてくれた。立ち尽くしたまま泣いていると姉は優しく抱きしめてくれた。姉の腕の中で再び泣いた。姉の服に涙の跡がくっきりとついてしまい、軽く怒られたが二人とも笑っていた。ウィッグの付け方を教えてもらい、姉がメイクを施してくれた。鏡を覗くと綺麗な私が顔を出した。他にも色々な髪型のウィッグを試した。
「どう?気に入ってくれた?」
「ウィッグってすごいね。本物みたい」
「まぁ、少しいい値段するんだけどね」
「つけたくなったらいつでも言って」
「ウィッグは魔法だよ」
魔法。姉が放った言葉はその通りだった。人は生活する上で、世の中と適合して生きていかなければならない。普遍から外れた者たちは、例外なく淘汰される。そんな生きにくい趣味を持った僕にとって、ウィッグは魔法のようなアイテムだった。姉がいなければ、部屋に引き篭もったままだった。メイクで得られた感動も魔法のウィッグの喜びも、きっと知らなかっただろう。姉には感謝してもしきれない。元の髪を失った悲しい気持ちもあるが、優しい姉がいつもそばにいる。何より、一番身近な姉が僕を受け入れてくれたことが嬉しかった。
3
華金。こんなに素敵な言葉は他にないだろう。本音の姿を身に纏い、行きつけのバーへと向かう。私はいま、ある男性に好意を寄せている。名前は斗真さん。このバーで彼と知り合ったのは、一人で飲んでいる私に声をかけてきたことだった。
「ここのマティーニ美味しいですよね」
そう言って、彼は自然と私の横に座り、話し始めた。このバーに通い始めてからはよく声をかけられていた。最初のうちは自分の魅力に気づいてくれたと喜んでいたが、あまりにも声をかけられてしまうため、段々と煩わしさを感じていた。そろそろ別の店に変えようかと考えていたところ、斗真さんは現れた。気品なスーツを身に纏い、高級ブランドの腕時計が鋭く輝いていた。不思議と嫌悪感はなく、彼のざらざらとした低い声やたまに微笑む優しい笑顔に心地良さを感じていた。その日は好きなお酒やアニメの話で盛り上がり、以降、彼とはこのバーでよく話すようになった。
斗真さんに会うたび、私は悩みが蓄積されていった。本当は『男』であることを伝えるべきか。彼は純粋でまっすぐな人柄をしている。私の存在を認識して面と向かって話してくれる姿を見ると、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。私は意を決して彼に打ち明けることにした。
「私、実は男なんです」
「……そうですか」
きっと嫌われてしまう。今日が最後の日かもしれない。不安が押し寄せる中、冷えたグラスの水滴が私の心を映していた。
「
あまりにも綺麗で気がつきませんでした」
「気持ち悪いですよね」
学生時代の記憶が蘇る。もうあんな思いはしたくない。けれど、斗真さんには本当の私を見てほしい。空っぽのグラスが渇いた喉に緊張感を与える。
「そんなことないですよ」
「ハルカさんはハルカさんじゃないですか」
帰ってきた言葉は意外だった。こんな私を受け入れてくれる人が、姉以外にいるなんて思いもしなかった。過去の傷が彼の言葉によってゆっくりと癒されていく。緊張が一気に解け、反動で泣いてしまった。テーブルに打ち伏した私の背中を彼が優しく撫でだ。
いつものバーで彼を待っていると、酔っ払いの男性が絡んできた。
「お姉さ~ん、一人で飲んでるなんて寂しいねぇ」
「俺と一緒に飲もうよ」
またかと思い、お世辞の笑顔でかわしていた。無駄にしつこい男性のしわがれた声に何か引っかかり、顔をよく見ると、同じ会社の課長だった。全身が凍りついた。咄嗟に自分の顔を隠し、適当な理由をつけて、席を外した。今まで会社の人に出くわすことなんてなかったのに。やむを得ず、斗真さんに連絡をした。
「すいません、急用ができてしまいました。また連絡します」
それからは怯えるように自分の家へと帰った。
週明け、いつも通り会社へ行くと、普段関わることのないあの課長から、突如呼び出された。恐る恐る課長の元へ行くと、コーヒーを揺すりながら待っていた。
「突然呼び出してごめんな」
「ちょっと聞きたいことがあってな」
冷や汗が滲む。課長はニヤニヤと笑っている。
「金曜の夜、バーにいたろ」
「……いや、違います」
「女装が好きなのか」
「人違いだと思います」
「満喫に入ってくとこ見たんだよ」
「その近くで待ってたらな、同じスマホケースの奴が同じ部屋から出てきたんだよ」
盲点だった。身なりや声色などは意識して変えていたが、スマホケースにまで気は回らなかった。まるで頭を鈍器で殴られたような感覚に陥った。
あまりのショックで気が動転してしまい、仮病を使って早退した。課長はきっと周りに言いふらすだろう。もう、会社の人達と合わせる顔がない。動揺した気持ちが抑えきれず、救いを求めて斗真さんに連絡をした。
「今夜会えませんか」
「いつものバーじゃなくて、別の居酒屋さんで」
4
「では、十七時に落ち合いましょう」
斗真さんから返信が来た。正直、いま本音の姿で外に出るのは気が重い。ただ、斗真さんには会いたい。周囲の目を気にしながら、待ち合わせ場所へ向かった。
居酒屋へ着き、会社で女装がバレてしまったことを伝えた。
「それは辛かったですね」
「僕はいつでも貴方の味方ですよ」
斗真さんは優しく私の手を握る。泣いてしまった。必死に支えていた心が、一気に解けいく。気づいたら近くのホテルまで流れ着いていた。私は夜の経験が一度もない。それは建前の姿でも。
「先にシャワー浴びてきてください」
言われた通り浴室へ行き、シャワーを浴びる。泣き疲れた身体が洗われていく中で、初体験が始まる胸の高鳴りを感じていた。ふと考えた。メイクまで落としていいのだろうか。いや、違う。きっとそういうことではない。身体を軽く洗い流す程度でいいのだ。せっかく可愛くしたのだから勿体無い。これで合っているのか不安に思ったが、斗真さんの反応的に合っていたのだろう。
彼がシャワーを浴びている間、色々な想いが込み上げてきた。建前の姿では、こんな体験をする機会は無かっただろう。私は運が良かったと思う。異性が惹かれ合うのは、性別のフィルターを介して繋がる。それは、本当の愛じゃなくて、動物的な本能であって、生存確保や子孫繁栄を目的とした一つの行動でしかない。だけど、同性が惹かれ合うのは、動物的本能でも生存確保でも、子孫繁栄でもない。一人の人間として愛し愛されるということだ。こんな幸せなことはない。そして、それが斗真さんで良かった。斗真さんに出会えて良かった。これからの私の人生は彼とともに作り上げる。きっと輝かしい明るい未来が待ってると夢を膨らませた。
ダブルサイズのベッドで待つ私の横に、髪を濡らした彼が腰を下ろす。肩に手を回し、そのまま押し倒された。脈拍が高いことが自分でも分かる。ただ、心臓の音に少し違和感を感じた。今思えば、この時の胸の高鳴りは、自分への危険信号だったのかもしれない。
「この時を待ってたよ」
「楽しもうぜ」
声のトーンがいつもと違う。言葉に棘があり、目には冷酷さがある。私の手首を掴む彼の手に力が入る。
「えっ……ちょっと痛いです」
「喋るな」
「お前は今日で用済みになるんだよ」
「居酒屋で突然泣き出すから、最高のタイミングだって思ったよ」
「女が弱ってる時って何かに縋りたくなるよな」
「まぁ、女じゃないけど」
動揺しながら必死に抵抗する。いつもの斗真さんとは様子が違い、今の彼からは狂気すら感じる。怖くなってしまい、黒い悔し涙が流れてくる。
「なんだよ、泣くなよ」
「めんどくせぇな」
涙でメイクが崩れていく。斗真さんのために気合いを入れたメイクが。本音の姿で外に出るのは怖かったけれど、斗真さんに会えるならと綺麗にしたメイクが。
「おい、顔汚くなってるぞ」
「気持ちわりぃ~」
その瞬間、私は建前の自分を呼び出し、力強く彼の手を振り払った。それでも迫ってくる彼に、近くにあった間接照明を殴りつけた。震える手で荷物をかき集め、バスローブのまま部屋を飛び出す。涙で視界がぼやけてしまい、上手く走れない。無我夢中で走り続け、途中で息を切らして立ち止まった。顔を上げると駐車されている車の窓の自分と目が合った。大事にメイクした顔が黒い涙でぐちゃぐちゃになっている。思わず笑ってしまった。
「気持ちわりぃ顔……」
髪もボロボロで、なんだか馬鹿らしくなり、ウィッグを窓ガラスに叩きつけた。ヒールも投げ捨てて、そのまま地面に泣き崩れる。突然、電話が鳴った。あのクソ野郎かと思ったが、発信元は母だった。
「えっ」
姉の訃報だった。地元で起きている連続殺人事件に巻き込まれ、人気のない山奥で発見されたと。犯人は自ら出頭したと聞かされた。
「分かった」
今の私からは、せいぜいそんな言葉しか出せなかった。耳鳴りが消えない。姉が死んだ。閉じこもった私を救ってくれた。生きる希望のない私に魔法を与えてくれた。たわいもない話で私を勇気づけてくれた。いつも私の味方だった。その姉はもういない。あの笑顔が頭から離れない。街の明かりが鬱陶しい。街の喧騒が喧しい。私を救ってくれるのはもうあの子しかいない。ネオン街を抜け、隣駅の道まで裸足のまま走って行く。
いつもの場所に近づいてくると、視界に小さな黒模様が映った。ヒールのない裸の足がコンクリートの痛みに悲鳴をあげる。あの子なら分かってくれる。きっと今の私を癒してくれるはず。最後の希望に期待を寄せながらメメに近づくと、毛を逆立てながら、威嚇してきた。
「私だよ、ハルカ」
「いつも缶詰あげてるでしょ」
メメは警戒している。
「どうして?」
「こんな格好だけど、分かるでしょ?」
メメに触れようと手を近づけると、尖らせた爪で手を引っ掻かれた。血が滲む傷よりも、金色の瞳に映る私が恐怖の対象になってることの方が何倍も痛む。メメは、身の危険を感じ、その場から飛び出した。その瞬間、煌々と照らすライトと機械の轟音が通り過ぎた。何が弾ける音と黒い塊が宙に舞う。私はただ固まっていた。何もせず、何もできずに。一瞬、何が起きたのか分からなかったが、路肩にメメが横たわっているのが見えた。ゆっくり近づくと、メメは息をしていなかった。私が殺してしまった。私のせいで、メメは死んでしまった。出てくるはずの涙が水源を失い出てこない。気持ちが紛らわせない。感覚が麻痺している。おかしくなってしまった。じわじわと絶望感が全身を襲う。自分の心臓を潰してやりたい。私は、最悪だった中学時代へ逆戻りした。
5
退職代行を使って、会社を辞めた。連絡先も全て消してしまった。僕は一体何を間違えたのか。女装?バーで出会ったこと?メメと話していたこと?学校に行かなくなったこと?生まれてきたこと?考えれば考えるほど、自分が嫌いになる。ベッドで蹲る僕の体が、深く沈んでいき、暗闇の中へと溺れていく。床と一体化して溶けていくよう。このまま意識を失いたい。
斗真という男も、結局は異性として外見で僕と会っていたのだ。どちらにせよ、僕の中身を愛していなかった。ネオンの明かりは、僕の救いの光ではなかった。光るものに釣られて集る、虫の一匹に過ぎなかったのだ。カーテンの隙間から差し込む陽の光が埃のたまった部屋を露わにする。通販で買ったカップ麺が辺りを埋め尽くす。もう、二ヶ月家を出ていない。
玄関先のポストから軽い音が鳴った。最悪。ガス代の請求書だ。社会人になりたてで、仕事が忙しく、支払い変更を後回しにしていた。過去の自分を恨む。重い腰を上げて、二ヶ月ぶりに外へ出る。
外は皮肉なほどに快晴だ。中学時代を思い出す。陰湿的な自分とは対照に、外交的で活発な、いわゆる陽キャと呼ばれる者たち。入学当時、友達のいない僕にその陽キャたちは声をかけてきた。大した話はしてないが、その圧倒的な輝きに胸が押しつぶされるような感覚だった。彼らに悪気はない。だが、私の影が小さくなっていき、居場所が無くなっていく。それが息苦しかった。何故か、そんなことを思い出した。
コンビニで支払いを済ませ、家路を辿っていると、小さな猫が目の前に現れた。その猫は、甲高い声で私に鳴いてくる。短い足で私の元へ駆け寄り、よじ登ってきた。罪悪感が蘇ってきたが、なぜか振り払うことはできなかった。その子はメメと同じ目をしていた。私の心を見透かすかのように、優しい声で鳴く。触れると、反発するように身を寄せてゴロゴロと喉を鳴らした。あの時止まっていた涙が今になって溢れ出す。メメではないその子を抱きしめて何度も謝る。
「……ごめんね……メメごめんね」
公園の片隅で泣き崩れ、決して届かない想いを何度も繰り返す。
「猫ちゃん、可愛いですね」
見知らぬ女性が声をかけてきた。泣きじゃくってる自分には気づいていない。僕の顔を見た女性は慌てて言葉をつないだ。
「えっ!大丈夫ですか」
「これ使ってください!」
シャム猫が描かれたタオル地のハンカチを差し出した。喉が詰まり、上手く喋れず、そのまま黙って受け取る。少し落ち着きを取り戻してから声を出す。
「すいません」
「ありがとうございます」
公園に設置された、木製ベンチに腰をかける。
「ハンカチ汚してしまいました」
「洗ってお返しします」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
「ちなみに私のこと覚えてます?」
猫背になった身体を起こし、女性に目を向ける。
「どこかでお会いしましたっけ?」
「やっぱ、覚えてないか」
「新人の時に研修受けてた水瀬です」
入社三年目になった僕は、新人教育係となった。彼女は、その時の新入社員だった。彼女の存在に気が付かなかったのは、研修後すぐに、他部署への配属が決まり、それ以降、関わることが無くなっていたからだった。
「あー、思い出しました」
「本当ですか?」
「顔を見ても思い出せなかったのに」
「それにしても何でこんなところに?」
「社内の全体メールで退職者リストに載っていたのを見たんです」
「それに会社で萩野さんの変な噂も聞いてて」
「心配になって、会社の人に最寄駅だけ聞いて来たんです」
「でも、どうしてそんなことを」
水瀬は、記憶を捲りながら話す。
「実は、研修の後に一回会ってるんです」
「会社の帰り道で猫を助けてる萩野さんを見たんです」
「川に落ちてしまった猫が、傾斜が高くて登れずにいたんです」
「それを見つけた萩野さんがスーツのまま川に飛び込んで、びしょ濡れになりながら猫を助けてたんです」
「周りの目なんか気にもしないで、掬い上げた猫を優しく見つめる瞳がとても印象的で」
「その子を優しく抱きしめて嬉しそうに笑ってたんです」
「その時、一目惚れしたんです」
一連の話を喋り終えた後、ふーっと深い息を吐く。言われてみれば、そんなこともあったなと振り返る。そこに、水瀬さんがいることは知らなかった。
「だから、お力になれればと思い、やって来ました」
「私は荻野さんの噂が真実であろうが何も気にならないです。どんな姿であろうとそれは荻野さんですから」
「それで、よろしかったらなんですけど……」
「今度、私とご飯でも行ってくれませんか?」
彼女の温かさに涙腺がにじみ、俯きながら頷くと、飛び跳ねるように喜んでいた。
それから十年の月日が経った。水瀬さんに声をかけられた日から外出をするようになった。彼女が一生懸命に話す姿に心が救われていった。メイクのことも打ち明けた。彼女は特に驚きもせず、「今度、私にメイクしてくださいよ」と言ってくれた。優しく心に寄り添い、僕を受け入れてくれる姿が、姉と重なって見えた。
現在は、保護猫カフェを経営している。店の名前は、「meme」。せめてもの償いだと思っている。それだけじゃなく、メメのような子を二度と孤独にさせないためにこのカフェを作った。人や誰かを思いやる気持ちは姉から教わった。それがどれだけ心の支えになるかは、私が一番実感している。あの子には多くの幸せを貰った。姉にもたくさん救ってもらった。自分の中で辻褄を合わせてるだけかもしれないが、メメや姉に届いていることを願ってる。
水瀬さんとは、付き合って五年目で籍を入れた。今は、年中の娘と一歳半の息子がいる。そして、たくさんの猫たち。決して裕福ではないが、幸せで溢れている。
時折、自分だけがこんなに幸せになっていいのか、思い悩んでしまう。過去に女装をしていたことを子どもたちは知らない。いつか伝えるべきなのか。妻は理解しているが、子どもたちは分からない。そもそも、女装をするという選択が間違っていたのか。
結果として、僕は同性愛者ではなかった。それに気づくのに十年もかかってしまった。中学時代の自信の無さが、メイクや女装に縋る形になっていたのかもしれない。自分の居場所はここしかないと思い込んでいた。姉に教えてもらったメイクが無ければ、今は生きていなかったかもしれない。その色んな経験を経て、家族に囲まれている。だから、女装の選択は間違っていなかった。その選択をしたからこそ、今の自分がある。妻や子供とも出会うことができた。生きている。僕は僕としては生きている。大きくなった娘にメイクを教えるのが楽しみだ。
<終>
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最後まで読んでいただき、ありがとうございます。この曲が、あなたの「今」を肯定する光になれば嬉しいです。
<hoge>