キッチンでコーヒーを淹れてみても苦手なまま

つまさきが冷えて
目覚めたソファの上
手を伸ばしてストーブを点ける
「半透明のさよなら」/杏沙子


 冒頭から、冬のシンッ…と冷えた空気感や、静かな部屋を<ストーブを点ける>音だけが震わせるイメージが伝わってくるこの曲。2019年2月13日に“杏沙子”がリリースした1stフルアルバム『フェルマータ』に収録されている「半透明のさよなら」です。まだどんな物語のなかにいる主人公かも、どんな感情を抱いているかも、綴られてはいません。

 しかし、たった3行にどこか哀しみや淋しさが滲んでいる気がしませんか? まず、冷えていた<つまさき>からは、他の誰の人肌も感じられず。さらに<ソファの上>で眠っていたことにも理由がありそうです。たとえば、ベッドに入ることすらできないほどの“何か”があり、眠れずボゥっとしているうちに、いつのまにか寝てしまっていた、とか。

カーテンを開けて見上げた空は
いつも通りちゃんと朝だった

キッチンでコーヒーを淹れてみても苦手なまま
あのとき苦い言葉だって
ちゃんと飲み込めたはずなのに
「半透明のさよなら」/杏沙子

 そして歌は、そのボンヤリした哀しみや淋しさの濃さを増しながら進んでゆきます。やはり主人公は、大きな“何か”があったのです。おそらく大切な“誰か”と。だから昨日は「もう夜は永遠に明けないんじゃないか」「二度と立ち直れないんじゃないか」「あなたがいない日々なんて生きられない」そんな想いを抱いていたのではないでしょうか。
 
 それでも<カーテンを開けて見上げた空は いつも通りちゃんと朝だった>のです。冷えた身体を温めたくてストーブもつけるし、キッチンでコーヒーも淹れてみるし、何もかもいつも通り。当たり前に日常は続いていきます。ただひとつ変わったのは、主人公と違い<コーヒー>を好きだった“誰か”が、もうこの部屋にいないことだけ。
 
 尚、先に言ってしまうと、この歌には<あなた>や<君>という人称は一切、登場しませんし、最後の最後まで何が起こったのかも明かされません。だけどわたしたちは確かに、この曲が失恋ソングであると察するはず。何故なら前述した<コーヒー>や、<苦い言葉>というちょっとしたワードから“半透明”の“誰か”を感じるからです。

半透明のさよならを窓に映して
垂れてゆく雫は昨日の涙で
透き通る朝の街の
誰かの白い吐息に
いつかは変わって消えてゆく
「半透明のさよなら」/杏沙子

 半透明のさよなら。この言葉はきっと、別れたけれどまだ消化し切れていない感情の状態を表しているのだと思います。歌詞には綴られていない、愛や未練や後悔や思い出。それらが<さよなら>を少し濁らせているのでしょう。でもそれは<誰かの白い吐息に いつかは変わって消えてゆく>もの。つまり、不特定多数の“誰か”になってしまった“愛していたひと”の白い吐息に、自然と消えていってしまうのです。

散らかった部屋の中
隠れた過去の忘れ物も
今日で片付けよう

キッチンでコーヒーを捨てて
甘い紅茶を淹れ直したら
「半透明のさよなら」/杏沙子

 ただし「半透明のさよなら」は、そんな<半透明のさよなら>のボンヤリした哀しみや淋しさのなかに、最後まで沈んでいってしまう歌ではありません。むしろ逆です。散らかった部屋も過去の記憶も片づけて、必要なくなった<コーヒーを捨てて>、自分の好きな<甘い紅茶を淹れ直し>て、主人公は自分自身を取り戻し、未来へと浮上していくのです。

誰かの愛しい寝息といつかは眠って
つまさきを寄せ合う
そんな日が来るなんて今は想像もできないけど

半透明のさよならを窓に映して
垂れてゆく涙も描いた記憶も
透き通る朝の街の
誰かの白い吐息に
今ほら 変わって消えてゆく
「半透明のさよなら」/杏沙子
 
 たとえ、また<誰かの愛しい寝息といつかは眠って つまさきを寄せ合う>次の恋なんて想像できなくても、少しずつ<半透明のさよなら>は透き通って、日常のなかへ消えてゆこうとしております。それは、ちゃんと別れを消化できている証です。

 今、自分も<半透明のさよなら>を抱き続けているというあなた。是非、杏沙子のこの歌を聴いてみてください…!聴き終えたときには、思いがけず、ふっと前を向けているかもしれません。

◆紹介曲「半透明のさよなら
作詞:杏沙子
作曲:宮川弾

◆ファーストフルアルバム『フェルマータ』
【初回限定 ぐるぐるリングノートデラックス盤】VICL-65093 ¥3,200+税
【通常盤】VICL-65094 ¥2,700+税

<収録曲>
1 着ぐるみ
2 恋の予防接種
3 ユニセックス
4 チョコレートボックス
5 よっちゃんの運動会
6 ダンスダンスダンス
7 アップルティー
8 半透明のさよなら
9 天気雨の中の私たち
10 おやすみ
11 とっとりのうた