締切はすぐにくる。資本主義が肥大して久しい現代社会において、富や機会の不平等とは、我々が社会のるつぼに産み落とされたとき、まず最初に直面することを強いられる前提条件だが、その不平等の枠内には入らない!というあるものについて、敏腕ビジネス系YouTuberが声高に言っていた。
「みなさん、いいですか。時間だけがね、唯一平等なものなんですよ」
サムネイル画面にも大きな文字で書かれていた。ドヤ顔だった。彼はいつも結論から叫ぶのだ。ビジネスマンたるもの、結論から言わないとイケてる感じにはならないらしい。結論から言え!というサムネイル画面もその映像の下にあった。そのサムネイルのさらに下のほうには「わかりやすく説明します、特殊相対性理論!」という、科学系YouTuberのサムネイルがあったが、物理は高校生のときから苦手なので、光の速度でPCを閉じた。「迷うな、即行動!」という動画もあった気がする。あった気がするが、見てもすぐ忘れてしまうので、わからない。自分の記憶など信頼に値しない。
やれやれ、そんなことをしているから、締切がすぐ来るのだ。「よ!元気にしてた?」という感じで、あいつはひょっこりと私の眼前に現れる。気づいたら鼻先くらいの距離でこちらを見つめている。最近は老眼(43歳のお年頃です)が始まっているので、あまりに近距離に来られると見えづらい。だからあいつの接近に気がつかなかったのか。「ずいぶんと早く来たじゃないか」と苦し紛れに不満を伝えると「いやぁ、ほら、見て。スケジュール手帳。ね、時間通りです。遅刻もしなければ、早出もしない。ジャストタイム。僕は時間だけはしっかり守るんですから」と胸を張られてしまう。たしかに彼が時間を間違うことはない。彼は締切だ。彼は時間の“点”そのものだ。彼は動かない。(マネージャーに「ごめん、あの締切、後ろ倒してくれない?」とできるだけ大変そうな顔をつくって頼まない限り)
あの野郎め、たかが時間の“点”のくせに、大きな顔しやがって。俺たちは時間の“線”を生きているんだ!そう啖呵を切りたくなるが、スマホや手帳を開けば、締切と同様に無数の“点”が書かれていて、その“点”にどれだけ行動の主導権を握られているか、手綱を引かれているか、考え出すとつらくなるので、とりあえずスマホでショート動画を眺めながら現実逃避をし、だらだらと時間を過ごしたい。「あ、この料理しているワンちゃん、生成AIの動画なのか……」とか呟きながら。
いや、ダメだ。書かなくてはいけない。歌ネットのこのコラムを書かなくてはいけない。歌ネットのコラムの締切が、今、私を見ている。私は締切からの熱い視線を感じている。締切を見つめているとき、締切もまた、こちらを見つめているのだ。
さすがに、そろそろ怒られそうな気がする。
前回のコラムで、AIの歌詞生成について、なにかそれっぽい仮説と論点を述べて、最後、お茶を濁すような締め方をした記憶がある。まだお読みでない方は、ぜひ前回のコラムもご一読いただき、そこで「なんだよ、長いな」と思ったら、そのままこのコラムには戻らず、歌ネットに掲載されている素晴らしい名曲の歌詞たちを眺めてほしい。そちらのほうがはるかに有意義な時間を過ごせると思う。だが、もし万が一「あいつのくどい長話が気になる」と思ってくださった物好きな方がいたら、遠慮せずに戻ってきてくれたら嬉しい。こっそりでかまわないから。
ありがとう。おかえりなさい。
さて、話を戻そう。時間は平等である、についてだ。
差し迫る締切を前にしたとき、にわかにその言葉を信じがたくなるのは、私だけであろうか。私は知っている。締切があるときの1週間と、締切がないときの1週間が、まるで別人であることを。おい!1週間!お前、締切と出会う前は優しい奴だったじゃないか!いつも穏やかで、細かいことは気にしない、なんでも許してくれる素敵な奴だったじゃないか!それがなんだ、締切とかいうイケすかない奴と付き合うようになったら、急にむんむんと香水みたいに緊張感を漂わせやがって。スマホ見てたら「その時間、必要ですか?」とか「その時間に生産性ありますか?」とか、いちいちチクチク言いやがって。万難を排して仕事に打ち込もうとする善良な我々の自己肯定感を下げるんじゃない!どうしちまったんだ、もとの純朴な1週間に戻ってくれ。都会の色に染まらないでくれ。
我々の目の前にある量としての時間はたしかに平等だが、我々が体感する、我々が生きる現象としての時間は、各個人間ではもちろん、いち個人のなかにおいても、一定ではなく、かたちがとどまらない液体のように、とらえようのないものだ。楽しい時間は短く、つらい時間は長い。そのような時間についての感覚変化は、日常を生きている我々にはごくありふれたことで、この冗長なコラムには1年をかけても共感していただけないかもしれないが、「そのときどきによって、時間の感じ方って違うよね!」という呼びかけには、かなり多くの方が一瞬で共感していただけると思う。
「いや、たしかにその時々での体感時間って違うけれど、それっていわゆる“個人の感想”ですよね。そうじゃなくて、僕らが議論しているのは、時間そのものの量のことでぇー」と言われてしまうと、「はい、その通りです。その“個人の感想”が“客観的な量としての時間”とは別に、それぞれに存在していることが大変重要なんです」と(議論のすり替えをしていることは隠しながら)精一杯の賢そうな顔をして言い返してしまう。
乱暴に言えば、我々は同じ時間を生きていない。
私が生きるということは、私が感じる時間のなかを生きるということだが、私が感じる時間を、他者と共有することはできない。スマホをだらだらと眺めていたら、あっという間に昼休みが終わってしまった。一方で、食堂で上司の愚痴を聞かされて過ごした昼休みは永遠かと思うくらいに長かった。それらは誰かが、ある特定のときに感じた、固有の時間感覚だ。
誰かが過ごしたそのような“ただひとつの”時間は、過去に体験したよく似た時間を参考にして“共感”することはできても、その時間そのものを、あるいはその時間の感じ方を“共有”することはできない。あなたはあなたの時間を生きていて、わたしはわたしの時間を生きており、彼、彼女はまた違う時間を生きている。ただ、そのままそれぞれの時間感覚を野放しにしていると、集団生活は破綻してしまうので、社会は「時」を秩序立て、客観的な時間の量を測るための指標をつくり、なんとか個々人の(あるいは個人内の)時間の共存、統制、調整を行おうと試みてきた。
一定の規模まで共同体が拡大したとき、その時々の権力者が「時」や「暦(こよみ)」を秩序づけていった事実が(あるいは秩序づける権限を独占した事実が)、歴史上にしばしば存在するのは、それが社会全体の治安や、社会全体の生産性をコントロールするときに大変に重要で、支配的な方法だったからのはずだ。このコラムでは、さきほど締切を“点”と比喩したが、時間において“点”を打つことがどれだけ人間の行動に影響し、なかばコントロールするかは、日々の生活を思い返してみれば、すぐに理解できることだろう。会社勤めではない私は、労働時間においては大変に自由のきく立場であるはずだが、その自由も、締切をカレンダーに打ちこむマネージャーの手のひらの上を回遊させられているに過ぎない。何にも縛られず、俺は俺らしく毎日を過ごすぜ!などとかっこつけてこの仕事を選んだつもりでも、「水野さん、月末までにデモ提出でお願いしますね」と言われて、グーグルカレンダーに書き込まれてしまえば、その瞬間から「締切までの時間」が否応なく始まり、私はその時間のなかを息を切らして、たまにサボりながらも、懸命に泳ぐしかなくなるのだ。
なんの話だ。ただの愚痴になってきてはいないか。
とにかく長い。こんなに長いのに、ここまで読んでくれたあなたとは、これからも、いい時間をともにできる気がする。ありがとう。マネージャーがこのコラムを読んでいないことを祈る。長いから、おそらく斜め読みして飛ばしているだろう。それでいい、それがいい。
ただ、この“点”は、時間そのものではない。時間を測るための指標ではあっても、常にうごめき、流れている時間そのものではない。むしろ、その点と点とのあいだ、つまり“線”を旅している我々のほうが、時間そのものに近しい存在のはずだ。
時間そのものは、つねにうごめいている。単純に「(素朴な認識としての、過去から未来へと)流れている」という動きだけではなく、その感じ方、在り方も含めて、常にアメーバのようにうごめいており、あらゆる面において動的な事象だ。そう、まるでそれそのものが生きているように。そしてそのなかを生きる、その時間とともに生きねばならないことを宿命づけられた我々も、動的な存在にならざるをえない。わたしたちは「あっという間」に感じたり、「無限」に感じたりする、どうにもとらえどころのない気まぐれな時間という海のなかを(いずれは朽ちる有機体である以上、それそのものと同化しながら)生きなければならない。ややこしいのは、本当に意識の果てまで同化してしまうと(つまり、それは死だろう)、わたしたちは「個(わたしであること)」を認識できないので、かりそめにも主観という立脚点に立ち、言葉というコップをつかって、なんとかその海から「今」であるとか「あの頃」であるとか「これから」であるとか、時間の水を掬い取り、外部化して、コップに入った水を見つめて、時間のかたちをなんとなくでも認識して、なんとか「個(わたしであること)」という状態を維持している。
付き合い始めた恋人が電話口に出る。「今、何している?」と聞く。
大学を卒業して以来、十数年ぶりに友人に再会した。「今、何している?」と聞く。
このふたつの「今」が指し示す時間的な範囲は、明らかに違う。前者は、この電話をかけているまさしく今、何をしているかを問うている。恋人は答える。「暇してた。会いたい。すぐに家を出られるよ。どこで待ち合わせる?」。後者は、短時間の範囲を指し示す今ではなく、広ければここ数年ほどをまたいだ時間を念頭においた今であるはずだ。友人は答える。「今、実は教師をやっているんだよ。信じられるか、あんなやんちゃしてたこの俺が先生だぜ」。
こうやってわたしたちは、たがいに異なる時間感覚を、言葉をつかうなかで、知らず知らずのうちに付き合わせ、重ね合わせて、うまく折り合いをつけながら、柔軟に他者理解を試みている。難しいことではない。いつも自然とやっていることだ。このように動的な存在であって、よくもわるくも動的な意識しか持ち得ない人間と、それを情報ととらえ、天文学的物量の情報を人間に認知できないほどの粒度で再構成することで、あたかも動的に“みえるもの”としての時間を再現するAIとを並べたときに、それは同一化できるものなのか。時間という“体験”のなかを生きる人間と、時間という“情報”のなかを超速度で固定していくAIと、その差は、見えないことはあっても、埋めることはまだできていないのではないか。
やっとAIと人間の話にたどりつきそうだ。やっと“あい”ちゃんに会えた。長すぎる。やはり、歌のいち書き手でしかない人間が、ただ表面上を読みかじったに過ぎない浅く不正確な知識をもとに、頭のなかをこねくりかえして語るには、難しい話題だったか。まぁ、もう少しで終わるので、それっぽいことを言っていたなと笑って、読み通してほしい。
生成AIは膨大な情報を、人間には理解できないような複雑な次元構成のなかに置いて、あくまである時点での入力に応じて(つまり世界そのものの、流れていて止まることのない“大きな時間”とは切り離されている)、人間にはとても追いつきようがない速度で計算し、一定の解を出し続けるものだと理解しているが、これはぼんやりと合っているのだろうか。その一連を、たとえば人間の側から見たとき、人間が持つ自然さや複雑さにもきわめて近いものに“見える”ようになってきていて、見分けがつかないというのが、生成AIの成果物が「うわ、すげ、ひくわー」となる状態のひとつの内実ではないか。ただ一方で、AIの出す解や、AIそのものは、膨大な計算の“ある1点”の連続で構成されているもので、静的な“点”が人間には認知もできないほど細かく連続していて、動的な“線”と見間違うほどに近似していても、動的な“それそのもの”ではないとは言えないだろうか。
子どもの頃、「今っていつ?」と考えて、堂々巡りになった経験はないだろうか。「今」と思った瞬間に、その今が過去になっている。だから、なんども来たるべき瞬間に準備をして、せーのと覚悟を決めて「今」と叫んでみるが、どうしても「今」になれない。結局、「今っていつなんだ!」と、わからなくて地団駄を踏む。そんなことをしている少年は相当にめんどうな少年だが、私はどちらかというとそういう少年だった。その成れの果てが、このコラムである。推して然るべしである。しかし、あの体験が、我々が生きている時間そのものの不思議さを、端的に表している。
我々人間は、あるいは人間の“生きる”という現象は、動的であらざるを得ず、それこそ厳密な「今」という特定の“点”にとどまることができない。たしかに、人間も物理的な存在で、意識を構成する脳内の電気信号や、化学物質の反応も、その一連を突き詰めれば、その現象の最小単位(=点)を同定できるもので、それはAIの実像と近似しているはずだ。だが、その一連を経て、立ち上がってきたらしい“意識”は、あるいは個の生命体としての“わたし”が誕生する前から、延々と現れ続けて、おそらく死んだ後も現れ続けていく、この“生きる”という現象は、時間そのものと酷似していて、1点をつかまえることができないのではないか。
動的である人間が、生きるために言葉を用いて時間を静的にとらえる。
静的であるAIが、生きているように見せるため時間を動的にみせかけるように語る。
同じようでいて、だいぶ違うのではないか。
そして、その差が隠しきれないほどに如実に表出するのは、複雑な情報を物理的に内包化していて、それらの差を隠蔽しやすい、動画や音声ではなく、歌詞のような、それ以上の情報を物理的に添付することのできない、シンプルな言語表現なのではないか。
だいぶ、息が切れてきた。もう文字が打てる気がしない。
AIなら、このコラムの不明瞭な点、矛盾している点、あきらかな事実誤認などを瞬時にみつけ、私がスマホでワンちゃん動画を見ているうちに、2万字くらいの反論を書き切るだろう。反論を見たら、自分の愚かさや不勉強ぶりに落ち込みそうなので、ずっとワンちゃんを見ていたい。できればポメラニアンがいい。でも、どのポメラニアンよりも、うちで飼っているポメラニアン(名前:てけ、オス10歳。とてもかわいいインスタやってます!)が一番かわいいので、そのままPCを開くことなく帰宅して、犬を撫でたい。
このコラムは全3回である。歌ネットは、私に3回のチャンスを与えてくれている。そのうちの2回をすでに使ってしまったようだが、なんとかあと1回で、もう少し語りたい。次回は、なぜシンプルな創作物がAIと人間との差を表出しやすいのかについて。ぐだぐだと考え、ぐだぐだと喋りたい。長い。長すぎる。
少し寒くなってきた。
青森と北海道近海で地震が起きたようだ。どうか被害が大きくなりませんように。
私も、たぶん誰かも、祈ったり、願ったり、するし、今までもしてきたはずだ。
それではまた、ごきげんよう。
<水野良樹(いきものがかり・HIROBA)>
◆ニューシングル「生きて、燦々」






