救いについて

クジラ夜の街
救いについて
2025年4月30日に“クジラ夜の街”が新曲「夕霊」をリリースしました。今作は学校生活における「いじめ」がテーマ。センシティブな社会問題を中心に物語が展開される楽曲。改めてクジラ夜の街はロックバンドという存在を再認識させる、疾走感溢れるセルフアレンジのサウンドに、希望の意志を力強く歌い切るメッセージソングとなっております。 さて、今日のうたではそんな“クジラ夜の街”の宮崎一晴による歌詞エッセイをお届け。綴っていただいたのは、新曲「 夕霊 」にまつわるお話です。あなたは音楽に救いを求めたことはありますか? 時にわたしたちが音楽に救われる、その理由とは…。ぜひ歌詞と併せて、エッセイを受け取ってください。 “夕陽は誰を照らすでもなく ただ、ひとりでに輝いています” “ですから当然、そこに意図などありません 確かなのはその熱と、燈色の光だけであって それ以上、何かを見出せたのだとしたら きっとそれは認知上の幻覚” “あるいは、あなたが無意識に夕陽へと映し出した感情そのものなのです” ーーーーーーーーーーーーーーーーーー この文章は 僕の大好きな詩人、オリバー・アースが書いた有名な一節を、日本語に翻訳したものです。 嘘です。 全て僕が書いた文章で、オリバー・アースなどという人物は存在しません。 エッセイの書き出しにしてはキザ過ぎるかなと思って、架空の作者をでっち上げてしまいました。ジョークですジョーク。 さて本題です。 “救いについて”とありますが 皆さんは音楽ってものに救いを求めてますか? 僕は求めてないです。 「救われたいな~」と思って誰かしらの歌を聴くとか、そんなんしたことない。 人が音楽を流す理由って、もっとシンプルで、言葉にもならんような原初の欲望が由来してると思うので。 まあ、何かを求めるにしたって 「元気出したい」とか 「泣きたい」とか 「元カレ忘れたい」とか せいぜいそんなところじゃないですか。 どれも“救い”ってほど大仰でも複雑でもない そんな深く考えないで突発的に聴くってのが大半かと思います。 ただですね。 僕は、音楽に救いを求めたことはないけど 音楽に救われたことは何度もあるんです。 そしてそういう音楽は結構 誰かを救うとか 共感を誘うみたいな意図が無さそうな曲が多い。 考えてみればおかしな話なんですけどね。 なんでもないような歌なのに 聴き終わった頃には 丸ごと救われたような気持ちになるなんていうのは。 けど実際、そういうのが起こり得る。 ですがそれを「音楽のチカラだ」みたいなふうにまとめるのは嫌なんです。 違うんですよ。 そんな救助システムはないんです。 音楽は医療じゃないんです。 在りし日には「不要不急」とまで言われちまった無力の賜物なんです。 ただの耳心地のいい振動なんです。 音楽のチカラなんてないんです。 ないはずなんですよ。 ではなぜ 救われたような気持ちになるのか。 それはきっと無意識に映し出すからです。 自覚すらしていない微細な感情や、透明な記憶を。 聴こえてくる、関係ないはずのメロディに。 知らず知らず映し出してしまうからです。 だから不意に涙がこぼれたり ずっと蟠っていた哀しみに、ふと折り合いがついたりする。 だけどそこに意図はない。 音楽は、鳴っているだけ。 詩は、そこにあるだけ。 手を差し伸べてくるわけでもないし 背中を押してくれるわけでもない。 それは夕陽のようです。 ただそこに存在しているだけなのに 皆、そこに想いを照らし出してしまう。 無為に放たれる光を前に 見えないはずのものが見えてしまう。 僕たちはその折、 チカラのような何かを感じ取ってしまうのかもしれません。 いじめをテーマにした本楽曲「夕霊」において 僕は、夕陽のような曲を書きたいと思いました。 人の痛みを必然的に癒すことなんて、絶対にできないですから 絶望も希望も同様に照らせるような歌をうたいたいと思いました。 あなたはこの曲に、何を映し出すでしょうか。 もしよろしければ、聴いてみてください。 という、ひと匙の意図が入り込んで。 夕暮れに霊が浮かび上がる。 <クジラ夜の街・宮崎一晴> ◆紹介曲「 夕霊 」 作詞:宮崎一晴 作曲:宮崎一晴