インタビューの最後に、読者プレゼントあり!
最新インタビューはコチラ! 市川由紀乃 ロングインタビュー 第3弾(2023年)
Ichikawa Yukino
市川 由紀乃
32th Single「 秘 桜 」(ひざくら)
★ 芸名は、恩師である昭和の大作曲家・市川昭介からもらったもの!
★ デビューから24年目にして、『心かさねて』で NHK紅白歌合戦初出場!
★ 2019年には『雪恋華』で「日本レコード大賞」の最優秀歌唱賞を受賞!
★ 最新曲『秘桜』は、凛とした歌声で心に響く、ドラマティックな情念演歌!
★ カップリングの『港町哀歌』も A面になりそうな 耳に残る王道演歌!
2021年3月10日(水)19時~ 配信
リリース 情報
市川由紀乃 「秘桜」(ひざくら)
シングル CD
2021年3月10日発売
KICM-31008
¥1,400(税込)
KING RECORDS
<収録曲>
1 秘桜 (作詞:吉田旺、作曲:幸耕平、編曲:佐藤和豊)
2 港町哀歌(作詞:岡田冨美子、作曲:幸耕平、編曲:南郷達也)
3 秘桜 - オリジナルカラオケ -
4 秘桜 - 一般用カラオケ半音下げ -
5 港町哀歌 - オリジナルカラオケ -
6 港町哀歌 - 一般用カラオケ半音下げ -
市川由紀乃 「市川由紀乃 無観客リサイタル2020 ~わたしは由紀乃~」
Blu-ray / DVD
2021年1月13日発売
BD KIXM-447 ¥5,500(税込)
DVD KIBM-867 ¥5,000(税込)
KING RECORDS
キャンペーン情報
パネル展 & サイン入りパネル 抽選 プレゼントキャンペーン
2021年3月9日(火)~2021年3月23日(火)
新星堂 新越谷駅ビル店
リミスタ インターネットサイン会
2021年3月12日(金) 17:00〜
商品購入期限:3月12日(金) 配信途中まで。
リミスタ
楽園堂 インターネットサイン会
2021年3月22日(月) 14:00〜
商品購入期限:3月22日(月)11時まで
楽園堂
ラジオ レギュラー番組
ラジオ レギュラー番組「市川由紀乃の歌の贈り物」
東海ラジオ 毎週土曜日 20時40分〜21時00分
ラジオ福島 毎週日曜日 19時15分〜19時30分
※ radiko(ラジコ)プレミアムなら、聴取エリア外でも、日本全国、どこでもインターネットで聴けます。
市川由紀乃 ロング・インタビュー
とにかく、歌声がいい。もちろん、歌手である以上、歌声がいいのは当たり前のことではあるが、そうとわかっていても、やっぱり市川由紀乃の歌声はいいなぁと思ってしまう……。それほど魅力的な歌声だ。伸びやかで心地よく、凛としている。
代表曲の『命咲かせて』『心かさねて』『雪恋華』など、市川由紀乃には、マイナー調の悲恋の歌が似合うイメージがあるし、本人も「暗い歌が好き」とは言うが、実は、メジャー調の明るい歌も魅力的だ。
2019年のシングルで、メジャーキーのポップス調バラード『懐かしいマッチの炎』は、やさしく深みのある歌声で心に響いてくるし、テレビ番組でカバーした小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』や、ちあきなおみの『紅い花』は抜群だったし、島倉千代子のカバーには定評がある。
声の良さに加え、その圧倒的な歌唱力は、2度の「NHK 紅白歌合戦」出場に、2019年には『雪恋華』で「日本レコード大賞」の最優秀歌唱賞を受賞していることでも証明されている。
張って歌うところでも、聴き手を緊張させない柔らかさがあって、それでいて、芯があり、輪郭がはっきりしているし、響きが明るいから、歌われている言葉の裏にある気持ちまで伝わってくる。
それに、自身のオリジナル曲だけでなく、カバー曲も、演歌だけでなく、ポップスでも歌謡曲でも、何を歌ってもうまく歌いこなす。素直で嫌味がない。市川由紀乃は、その素直な歌い方で、楽曲本来の良さをストレートに伝えられる歌手だと思う。
カバーというのは、実はとても難しい。どう歌っても構わないオリジナルとは違い、カバーの場合、オリジナルのイメージを崩さずに、かつ、自身の個性も出さなければならないからだ。モノマネをする方が、まだ簡単かもしれない……。
そして、歌声には、その歌手の性格が出るし、大袈裟に言えば、その歌手の人生そのものであるとも言える。
謙虚で、礼儀正しく、やさしく、そして、素直で明るい。真面目で、歌にストイック、傷つきやすく繊細な一面を持ちながら、どこか呑気なところもある。お笑いも好きで、吉本新喜劇は、毎週録画で欠かさず見ている。
市川の芸名は、デビューの時に、恩師である作曲家・市川昭介からもらった。『アンコ椿は恋の花』『涙の連絡船』『好きになった人』『大阪しぐれ』『さよなら海峡』など、都はるみの多くのヒット曲や、島倉千代子『恋しているんだもん』、水前寺清子『涙を抱いた渡り鳥』、五木ひろし『細雪』、大川栄策『さざんかの宿』、森昌子や松原のぶえが歌った『なみだの桟橋』などで知られる昭和の大作曲家だ。
しかし、市川由紀乃のこれまでの人生は、決して順風満帆ではなかった。
中学1年の時、両親が離婚したことをきっかけに、母親と障害のある7歳上の兄との3人で、6畳一間のアパート暮らしとなった。ホテルにあるような小さな冷蔵庫しか置けない台所、安いからと乾麺のうどんを毎日食べ、テニス部に所属していたが、ラケットは先輩からの借り物だった。
歌手デビューは、1993年、高校在学中の17歳の時と早かったが、ヒットには恵まれず、デビューから9年目、24歳のときには、心身ともに疲れ果て、一度、完全に引退している。
老舗の天ぷら専門店で働いた後、4年半後の 2006年に復帰するが、それでも、すぐに売れたわけではない。
2013年発売、通算22枚目のシングル『風の海峡』のころから、ようやくコンスタントに売れるようになり、2015年の『命咲かせて』と、翌2016年、通算26枚目のシングル『心かさねて』のヒットで、念願の紅白初出場。一躍、人気歌手の仲間入りをした。
時に、デビューしてから、実に23年もの月日が経っていた。
これまで生きてきた市川由紀乃の人生そのものが、まるで演歌みたいだ。決して順風満帆ではなかったが、そういうこれまでの積み重ねが、今の魅力的な歌声を作っていることも事実だ。
最新シングル『秘桜』は、昨年末の「第53回 日本作詩大賞」で大賞を受賞した『なごり歌』と同じく、吉田旺(作詞)と 幸耕平(作曲)による作品。マイナー調で、『雪恋華』路線とも言えるドラマティックな王道情念演歌。言葉が心に染みてくる抜群の歌声と歌唱で、サビの「♪逢いたいよ 逢いたいよ… 千里 駆けても 抱きに来て…」が耳に残るいい歌だ。
2013年発売の『風の海峡』以降、これまで、シングル 10作連続で、オリコン 週間シングル 演歌歌謡ランキング 1位を獲得しているが、今作で、その記録が、また伸びそうだ。
<もくじ>
1 最新曲『秘桜』『港町哀歌』 〜「2曲がひとつになって作品として発売するものなので…」〜
2 歌のうまさのヒミツはリズム…? 〜「自分自身には酔っちゃいけないっていう…」〜
3 髪をかきむしったレコーディング 〜「皆さんが何回も何回も聴いてくださるものなので…」〜
4 6畳一間の演歌のような中学校時代 〜「凍らせるってことが出来ない幼少期を過ごしてきたので…」〜
5 カラオケ大会に出場してスカウト 〜「移動時間も母親が寝かせてくれなくて…」〜
6 大作曲家・市川昭介の名前をもらったのに… 〜「もうウソみたいな話なんですけど…」〜
7 追い詰められて 4年半の引退… 〜「私の判断で奪ってしまったのかなって…」〜
8 夢が叶った紅白初出場… 〜「ホントに生きてて良かったと思いました…」〜
9 レコ大 最優秀歌唱賞 受賞… 〜「自分の務めだと思っているので…」〜
1 最新曲『秘桜』『港町哀歌』 〜「2曲がひとつになって作品として発売するものなので…」〜
通算32枚目となる最新曲『秘桜』(ひざくら)は、2019年に「第61回 輝く!日本レコード大賞」で、最優秀歌唱賞を受賞した『雪恋華』の路線とも言えるドラマティックな王道情念演歌。言葉が心に染みてくる抜群の歌声と歌唱で、サビの「♪逢いたいよ 逢いたいよ… 千里 駆けても 抱きに来て…」が耳に残るいい歌だ。
作曲は、代表曲の『命咲かせて』や『心かさねて』『雪恋華』(いずれも作詞は石原信一)などを含め、2013年の『流氷波止場』以来、市川由紀乃のシングル曲をほぼ全て書いている作曲家・幸 耕平(みゆき こうへい)による作品。作詞は、前作、2020年の「第53回 日本作詩大賞」大賞受賞曲にもなった市川由紀乃の前作『なごり歌』を書いた吉田旺。『喝采』『冬隣』『紅とんぼ』『雨に濡れた慕情』など、ちあきなおみ の代表曲の多くや、 内山田洋とクール・ファイブの『東京砂漠』、森昌子の『立待岬』などでも知られる作詞家だ。
「『秘桜』はですね、もう去年の秋の段階で、幸 先生が メロディを作っていただいていたんです。まだ歌詞が乗ってない状態で、先生の "♪ラララ〜" で、メロディだけを聴かせていただいたんですけど、もう、それだけで "うっ…… (涙)" って、こう、ウルウルってきてしまうメロディ展開があって……。」
やっぱり、サビの「♪逢いたいよ 逢いたいよ… 」のところですか?
「はいっ、もう、そこですね! そこが自分の中でも好きで。でも、その段階では、まだ吉田旺先生に詞をというのは決まっていなかったので、それこそ、もう年末近くになった12月ぐらいに入った時に、吉田先生に、また書いていただけるという事になったんです。」
ちょうど、吉田旺が作詞した市川由紀乃の前作『なごり歌』が、「第53回 日本作詩大賞」大賞を受賞したころだ(2020年12月5日)。
「そう、そうですね。『なごりうた』のレコーディングの時は、先生も体調が悪くて、お越しいただけなかったので、作詩大賞の時に、1年振りにお会い出来ましたし……。それで、その作詩大賞の時には、また次回作も先生に書いていただくっていうことが決まっていて、"次もいい詞が書けるように頑張るからね" って先生が仰ってくださって……。」
「それで、その後に、実際、詞が出来てきた時に、幸先生からスゴイ興奮気味な電話が掛かってきたんです、"とにかく詞を読んでほしい!" って。で、読んだら、もうメロディは自分の中でわかっていたので、その "♪逢いたいよ~" のサビの部分の詞と曲が……、もうそこが良くて……、"この歌を自分がオリジナルでいただけるんだ" っていうその喜びが強くなって……。あの、どちらかと言うと、私は "幸せ演歌" よりも、ちょっと、こう……ひねりのある情念歌みたいな歌が、とても好きなので(笑)。なので、今回、自分がまたこういう楽曲をいただけた事がすごく嬉しかったですね。はい。」
『秘桜』のサビは、メロディと歌詞のマッチングがとても良い。メロディが生きるように、かつ、メロディに乗せた言葉が耳に残るように、実に緻密に計算されて書かれた、さすがと思わせる歌詞だ。
そして、『秘桜』は、アレンジもいい。曲中のストリングスなど、見事に歌を盛り上げている。
「そうなんです、アレンジも好きなんです。ありがとうございます。」
イントロから、ドラマティックな世界が描かれている。
「そうなんです! だから、歌がなくても……(笑)。いや、でも、私、カラオケだけで、まず、もう何回も聴いて、イントロだけでも、なにか、こう……聴いて下さる方が、ご自分でストーリーを自分の中で描ける様な音楽っていうか……、ひとつひとつの楽器が、また生きてると言うか……、それは感じました。」
そして、カップリング曲の『港町哀歌』(みなとまち あいか)も、マイナー調のゆったりした王道演歌。語るような歌唱で、ジワジワしみてくるいい歌だ。毎コーラス出てくるサビ前の「♪忘れ旅です」と、サビの「♪もいちど もいちど」が耳に残る。A面になってもおかしくない曲だ。
「あの……、まぁ市川由紀乃っていうと、やっぱり、海峡とか波止場とか港っていうような楽曲が過去にもとても多いので、やっぱり、そういう歌を待ってくださってるっていう客様のお声も多くて……。実際、キャンペーンとかで、またそういう歌を出してほしいとかそういうお話を耳にするので、先生とか、ディレクターさんとかにも、普段からお話してお伝えしてるんです。そういう想いも込めて、今回、その、新しい市川由紀乃の "港演歌" っていうことになったんです。」
「カップリング曲ではありますけど、でも、CD は、やっぱり2曲がひとつになって作品として発売するものなので、両作品とも、すごく愛情があります。はい。」
2 歌のうまさのヒミツはリズム…? 〜「自分自身には酔っちゃいけないっていう…」〜
市川由紀乃は、とにかく、歌声がいい。伸びやかで心地よい。張って歌うところでも、聴き手を緊張させない柔らかさがある。それでいて、芯があり、輪郭がはっきりしているし、響きが明るいから、歌われている言葉の裏にある気持ちまで伝わってくる。そして、抜いたところは、やさしく心地よい響きと、言葉を語るような歌い方で、言葉がスッと入ってくる。
「あ〜、ありがとうございます。今回、『秘桜』を歌っていて気持ちいいのは、やっぱり、張って歌うサビの "♪逢いたいよ~" なんですけど…… (笑)。で、最後に声を張り上げて終わる歌って、ま、それはその歌の気持ち良さがあるんですけど、この『秘桜』は、結構、最後はしっとりと終わるので、そのしっとり感が、私は歌っていて自分自身が心地いいというか……。」
歌手の場合、レコーディング、歌録りの前に、とにかく歌いこんで練習するタイプと、逆に、あまり練習しすぎないようにするタイプと2通りある。歌録りまでに徹底的に作り上げておくスタイルと、歌録りの時に、どういう風にも変えることができるように固めないでおくというスタイルだ。
「レコーディング前はですね……、とにかくレッスン……、実践ですね。はい。オケ録り(歌を録音する前のカラオケのみのレコーディング)の仮歌の時も、幸先生は、"初めて歌うのではなくて、少しレッスンをした状態での仮歌" っていうことをおっしゃいます。今回も、結構、レッスンに時間を掛けていただきました。はい。幸先生は、もうすごく、市川先生と同じくらい細かくて……、とくにリズムに……。」
幸 耕平 は、作曲家として活動する前には、「トランザム」というバンドでパーカッションを担当していたこともある。1978年に「コカ・コーラ」のテレビ CM ソングだった『はだしで地球を駆けるのさ』(幸 耕平 の脱退後)で知られるバンドだ。だから、歌のリズムが気になるのだろう。同じく、幸 耕平 が曲を提供している純烈のレコーディングの時には、リズムを意識させるために、歌っている背中を叩いたりもする。
「そうです、そうです! します、します (笑) 。今回も、歌の中で、"♪トントコ トントコ" っていう、そういうリズムとかビートを、常に自分の中で刻みながら歌いなさいと言われました。」
メロディというのは、ピッチ(音程)とリズムで出来ている。音程のズレは、わりと誰でも気がつくが、同じくらい重要なメロディのリズムを、多くのアマチュアは意識していない。オケとは関係なく、メロディそのものにリズムやビートがあり、それを感じながら歌うことは重要だ。プロのうまい歌手は、カラオケなしのアカペラで歌っても、聴き手にリズムやビートを感じさせるものだ。
「それと……、あと、先生がいつもおっしゃるのが、たとえば、ココからココまでのフレーズだとしたら、ココを過ぎてしまうと、それは歌ってる人間だけが気持ち良くて、聴いてる人には気持ち悪いっていう……。」
ただ単に、歌う方が気持ちいいからと言って、必要以上に伸ばしたりしてはいけないということだ。
「だから、大きく歌う所もあるけれども、小刻みに刻んで、最後、ココで着地をするっていう所で、ちゃんと着地をする歌を歌わないとダメなんだ、って……。それは、自己満足の歌になっちゃうからって……。やっぱり、どうしても自分が歌い上げたいとか、ここを聴かせたいっていう時ってチカラも入りますし、それによってリズムが少しでも遅れると、それはダメだっていうことなんです。」
たしかに、ベテラン歌手の中には、往年のヒット曲を歌う時に、本来のメロディの譜割りをすごく崩して歌う人も見かける。そういう時、聴き手は「ホントは、レコードで聴いてたあの歌が聴きたかったのに……」と思ってしまうものだ。
「"自分に酔う歌を歌うな" っていうことで、自分じゃなくて、人を酔わせるっていう……。聴いて下さる方に酔っていただく歌を歌わなければいけないから、自分自身には酔っちゃいけないっていうことを、よく、先生は教えて下さいますね。」
市川由紀乃のイメージからは、表面的には、その情熱的に見える歌い方や、歌声ばかりが目立つが、実は、意外にも、その楽曲が本来持っているリズムやビートを崩さないように意識し、その上で、自分が気持ち良いのはもちろんだが、自分自身に酔ってしまうことなく、聴き手を酔わせるということを意識している。
自身のオリジナル曲だけでなく、カバー曲も、演歌だけでなく、ポップスでも歌謡曲でも、何を歌ってもうまく歌いこなし、楽曲本来の良さをストレートに伝えられる秘密は、実は、そんなところにあったのだ。
「でも、私は、まだ未完成と言うか……、その……、市川由紀乃っていう歌手を、これからもっと皆さんに知っていただきたいって思いますし、その中で、自分の歌っていうものを、これからキチンと確立して、やっていかなきゃって思うので、"聴いてて気持ちのいい演歌を歌う歌手" っていう風に思われるようになりたいと思います。」
3 髪をかきむしったレコーディング 〜「皆さんが何回も何回も聴いてくださるものなので…」〜
今回、レコーディングには時間がかかったようだ。
「今回は……、結構、かかりました……。いただく作品が、毎回、結構難しいんですけど、今回、楽曲が自分の中でやっぱり……、頭では分かっているんですけど、実際、自分で歌うと出来ていなかったりして……。先生に教えていただいた通りに自分では歌ったつもりなんですけど、実際はできていなくて、何回もプレイバックしてもらうんですけど、ドコがどう違うのかなっていうのが、もう分からなくて……。」
「もうホントに壁に何度もぶつかって、最終段階には、自分の髪の毛をガーッてグシャグシャにして、履いてるスリッパをパンパンってやったりしてしまうくらい……。それで、"もうそろそろ大丈夫ですか?" って言われて、何も考えずに歌ったら、先生が "それでいいんだ!" みたいな……(笑)。」
髪をかきむしるような姿は、普段の市川由紀乃からは想像できないが、真面目で、歌にストイックな性格が垣間見えるエピソードだ。真面目さゆえに、考えすぎて、カラまわりしてしまったようだ。
「そうですね。考え過ぎちゃって……。で、そのあとも、先生が、まだやぱっり出来ないトコロがあるって言って、自分が歌っているブースに入ってきてくださって、サビの "♪逢いたいよ~" とか "♪千里かけても~" とか盛り上がるところとか、先生が私の手を取ってこぅやって動かしてくれて……(笑)。」
「前作の『なごり歌』の時とかも、先生が "このリズムを常に刻め" って言って、ドラム・スティックで背中をずっと叩いて下さったりとか……(笑)。珍しい教え方かもしれないですけど、でも、それで自分の体に刻まれる感じがします……、はい。」
オリジナル曲の場合、カバーとは違って見本がないため、どういう風にでも歌える自由がある反面、その見本となる、「この楽曲はこう歌う」というある種のスタンダードを作らなければいけない難しさがある。
もちろん、幸 耕平 や、ディレクターがディレクションする部分もあるが、それ以外の部分でも、自分なりに作り上げなければならないところも多い。絶対的な正解はないから、自分で決めなければならないし、CD は、一度、出したらずっと残るものなので、それは気を使う。
「そうですねー。自分なりに作品の解釈とかはしています。リズムはもちろんですけど、そういう感情っていうものも、先生は大事にしてくださいますね。」
「あと、CD になると、やっぱり、それは、皆さんが何回も何回も聴いてくださるもので、いわゆるお手本というか見本になるものなので、"何回聴いてても、飽きないような物を作らないといけない" って先生はよくおっしゃってくださいます。」
「たとえば、コンサートとかライブとか、その場で、一度だけ聴いていただく時は、"もっとココはこう歌っていいんだよ" とか、"気持ち粘って歌ってもいいんだよ"、とかはあるんですけど、でも、CD は、それはダメなんだって、先生はおっしゃってくださいます。はい……。」
市川由紀乃の歌は、実際に歌われている言葉の裏側にある気持ちみたいなものがよく伝わってくる。だが、かと言って、感情的に歌えば伝わるというわけでもなく、それをやってしまうと、逆に、ひとりよがりな歌になりかねない。
「ああ……、そうですね……、感、情、は……、感情を入れ過ぎないようにというのは、心がけています。歌の主人公の女性の心情を自分が代わりに歌わせていただくっていう捉え方で、客観的に伝えるっていう歌い方と、あと、悲しい詞だけど、淡々としてるメロディの時は、逆に、ちょっと感情をオーバーめに込めて歌うとか……、というのは気をつけていますね。」
4 6畳一間の演歌のような中学校時代 〜「凍らせるってことが出来ない幼少期を過ごしてきたので…」〜
市川由紀乃は、近くに住んでいた歌好きの祖父母の影響で、小学生のころに、演歌・歌謡曲を好きになった。
「そうですね。その当時、竜鉄也さんの『奥飛騨慕情』って歌が流行っていた時で、おじいちゃんが、
その歌をまずよく聴い……、で、一緒におじいちゃんと歌ってましたね(笑)。もうホントに、歌好きの家族だったので。あと、おじいちゃんは、春日八郎さんとか、田端義夫さんとかも聴いてましたし。」
「子供の頃に、おじいちゃん、おばあちゃんの家に行くと、カラオケの機械があったり、レコード盤があって、それで、近江俊郎さんの『湯の町エレジー』を初めて子供ながらに聴いた時に、涙が出てきて……。詞の意味なんて分からないのに、すごくその歌が好きになって……。それが、どんどん自分の中で演歌が好きになっていった入り口だったと思うんです。」
たしかに、古賀政男が作曲し近江俊郎が歌った『湯の町エレジー』は、歌詞の内容がわからなくても、そのメロディーと歌声だけで泣かされる曲だ。当時、そういう演歌・歌謡曲が好きではあったが、最初に買ったレコードは、その年頃らしく、中森明菜の『少女A』だった。
「『少女A』買いました〜。小学生の時だったと思うんですけど。その時って、やっぱ、アイドル全盛期で、聖子さん、明菜さん……、で、兄は聖子さん派だったんです。で、私は明菜さんが好きで、お互いに、おこずかいでレコードを買って、でも、かける機械はひとつしかないので、結構、ふたりで、取り合いして……(笑)。」
今でも、中森明菜の『難破船』は、コンサートなどでも歌っており、NHK「うたコン」をはじめ、歌番組でも披露している。
そして、祖父母と同じく歌好きだった母親の影響もあり、演歌・歌謡曲では、美空ひばり、島倉千代子、都はるみ、坂本冬美も好きだった。
「そうですね……、その頃、平行して聴いてました。アイドルの方と同じくらい。母がよく聴いてて。」
「あの……、母も歌が好きで、当時、テレビでやってた『ルックルックこんにちは ~ドキュメント女ののど自慢~』にも、母は 2回 出場してるんです。で、あの番組は、ちょっと悲しい過去があると言うか、そういうドキュメントがあってから歌うんですよね、出場者の方が。で、まぁ、うちの母も色々と苦労してきたので、行ったら1回目のオーディションで受かって、それで、私と兄と、手作りの横断幕を持って応援に行きました。私が、小学校2〜3年生のころですね。」
「その時に、母が都はるみさんの『東京セレナーデ』を歌って、それから自分も、はるみさんとか、ひばりさん、島倉さんの歌を聴くようになりました。」
中森明菜と演歌・歌謡曲を聴く小学生のころを過ごした後、中学1年生になると、両親が離婚したことをきっかけに、母親と障害のある7歳上の兄との3人で、6畳一間のアパート暮らしをすることになった。
「はい。そうですね。まぁー、結構大変な時期はありましたね……。母は、ずっと働いて、育ててくれれて……。で、兄は体がちょっと不自由だったので、母が仕事に行ってる間は、私がご飯作ったりとかしてましたし……。」
よく「極貧だった」とか書かれているものも見かけるし、実際に、本人からそういう話を聞くと、それは大変だったろうなと思う。
「あんまり……大変だとは思ってなかったです……。物欲とかあまり無かったので……。私、テニス部だったんですけど、部活動をやると色んな物を買わなきゃいけないじゃないですか。まっ、補欠だったんですけど……(笑)、ラケットは先輩に借りたりとか……。あと、結構、乾麺のうどんを食べてることが多かったです、乾麺安いんで。でも、誕生日の時とかは、やっぱり母が奮発してくれて、ケーキ買ってきてくれてとかしましたね。」
「あの……、冷蔵庫も、大きな冷蔵庫が置けるスペースがない台所で、ホテルによくあるちっちゃいサイズの冷蔵庫しか置けなくて、だから、冷凍庫が使えなくて、アイスが買えなかった(笑)。アイス買えなかったし、夏の暑い時に、お水も、氷水とかじゃないし、冷たいジュースとか、そういう凍らせるってことが出来ない幼少期を過ごしてきたので(笑)。」
「でも、高校受験の時に、母が少し広いおうち、マンションに引っ越ししてくれたんです。それで、冷凍庫がある冷蔵庫を置けた時の感動はもう!(笑)」
アイスぐらいのことで、本人は、端から見るほどは、大変だと感じていなかったようだ。
「大変な意識はなかったですね……。それに、母も、そういう感じを子供達に見せなかったので……。まぁ、今、振り返ると、その時は大変だったのかなって思うんですけど……。でも、それも、今になってみたら、いい思い出というか……。」
ちょっと間違えば、グレてもおかしくなかったような環境だった。
「あー、そうですね……、グレはしなかったですけど、でも、やっぱり登校拒否とかはしましたね……。はい、ちょっと親には迷惑かけたと思います。」
悪い方向に行かなかったのは、兄の存在が大きかったのではないかと思う。
5 カラオケ大会に出場してスカウト 〜「移動時間も母親が寝かせてくれなくて…」〜
そんな中学生のころから、演歌歌手になる夢を描き始めていた。しかし、市川由紀乃は、カラオケ教室に長く通っていたり、本格的に歌を習ったりした経験はない。17歳で歌手デビューするまでは、ほとんど自己流だったわけだから、すごい才能だ。
「はい、その頃から、歌手になりたいと思ってました。習ってはいなかったですね、祖母がちょっと行ってたカラオケ教室に何回か参加させてもらったりとかはしましたけど……、その程度ですね。あとは、もう、母と……普通に自己流で。」
そして、高校1年の時、歌手になるためのきっかけになればとの思いで、「NHK のど自慢」に出場する。現在は、中学生でも出場できるようになっているが、当時は、まだ高校生以上が参加資格だったため、満を辞しての応募だった。埼玉県に住んでいたが、参加したのは、なぜか、千葉県の南部、房総半島にある君津市での開催回だった。
「はい、そうです。どこの会場で "のど自慢" をやるのかが分からなかったので、母が、NHKさんに問い合わせてくれたんです。"埼玉に住んでるんですけども、娘が出たいので、どこか関東で、のど自慢が開催される所はないですか?" って聞いたら、"千葉県の君津市があります" ってなって、"他県なんですけど、いいんでしょうか?" って聞いたら、"応募するのはどうぞ" みたいな感じだったので、それで葉書を出したら通過したので、オーディションに行きました。」
「NHK のど自慢」は、本番は日曜日だが、前日の土曜日に予選があるため、埼玉から、千葉県の君津まで 2日間行かないといけない。
「そうです、土日と行きました。遠かったですねーっ。もう、これで受からなかったら、なんかすごい苦労して行った道のりが……って思って、なんか親に対しても申し訳なくて……。で、土曜日の予選が終わったあとにも、色んな打ち合わせじゃないですけど、あるじゃないですか……、その当時、司会が吉川精一さんの時で。それで、終わって帰ると、それこそ夜に埼玉に着いて、で、また次の日には音合わせがあるので、朝イチで早く行かなくちゃいけなくて……。それで、ちゃんと声を出していないといけないので、移動時間も母親が寝かせてくれなくて……、寝ちゃうと声が寝ちゃうからダメだって言って……(笑)。」
「NHK のど自慢」では、神野美伽の『男夢まつり』を歌った。偶然にも、のちに、市川由紀乃の師匠となり、市川の芸名をもらうことにもなる作曲家・市川昭介の作品だった。
「はい、私が選びました。その頃は、パンチのある歌を歌っているコトが多くて、それこそ、坂本冬美さん、神野美伽さん、島津亜矢さんからすごく影響を受けていたので。その当時、神野美伽さんがその歌をよく歌っていて、"もう絶対この歌で行こう!" って決めてました。」
「NHK のど自慢」は、直接、歌手になるきっかけとはならなかったが、いい経験になった。事実、その後、1992年、16歳、高校2年の時に、埼玉新聞社主催のカラオケ大会に出場し、野中彩央里の『火振り酒』を歌い優勝したことで、スカウトされ、歌手になるきっかけをつかんだ。
「そうです。そこで審査員をされていたのが、もう亡くなられちゃったんですけど、作詞家の下地亜記子先生と、作曲家の岸本健介先生、そして、元テイチクで、現キングレコードのディレクターの中田信也さんだったんです。で、当時の事務所の社長が、中田さんと親しかったので、たまたま一緒に見に来られてて、中田さんと、事務所の社長に声を掛けていただきました。」
「そのカラオケ大会が、12月24日だったんですけど、"そういう男唄であったり、女唄であったり、色々なパターンの歌を聴いてみたいので、5〜6曲、そういう歌を練習してもらって年明けにオーディションをさせて下さい" って言われたんです。それで、年が明けてから、テイチクさんの杉並にあったグリーンバードっていうスタジオに行って、歌を聴いていただきました。」
そこで、デビューが決まった。高校2年生の時だった。
6 大作曲家・市川昭介の名前をもらったのに… 〜「もうウソみたいな話なんですけど…」〜
1993年8月21日、17歳にして、デビュー曲『おんなの祭り』(作詞:下地亜記子、作曲:杉原さとし)で、テイチクレコードより歌手デビューする。
デビューするにあたり、作曲家・市川昭介の門下生となり、市川の芸名をもらった。『アンコ椿は恋の花』『涙の連絡船』『好きになった人』『大阪しぐれ』『さよなら海峡』など、都はるみの多くのヒット曲や、島倉千代子『恋しているんだもん』、水前寺清子『涙を抱いた渡り鳥』、五木ひろし『細雪』、大川栄策『さざんかの宿』、森昌子や松原のぶえが歌った『なみだの桟橋』などで知られる昭和の大作曲家だ。
しかし、不思議なことに、デビュー曲は師匠である市川昭介の作品ではなく、それどころか、2000年に発売された11枚目のシングル『海峡氷雨』まで、市川昭介の作品は歌っていない。
「その当時の事務所の社長は、プロダクションを一時休んでいる状態で、その休む前の最後のタレントさんが、市川先生のお弟子さんだったんですけど、辞められてしまったんです。それで、やっぱり、市川先生の所に行かせたいからっていうことで、市川先生の所に行ってお会いしたんですけど、でも、レッスンは、一切受けさせてもらえなかったんですよ。」
「あの……、市川先生は厳しいし、その当時の事務所の社長が、私の性格を見て判断されたみたいで、多分、市川先生のレッスンを受けたら、この娘は、歌手やめさせてくださいってきっと言うって思ったみたいで……。それで、市川先生の門下生には入れていただいたものの、先生のレッスンは、7年間受けるコトなくて、違う先生に……。だから、市川先生の曲は 7年後なんです。それまでは、弦哲也先生とか、岸本健介先生とか、水森英夫先生とか、違う先生に書いていただいてました。」
それでも、デビューの時に、師匠の名前をもらえたのは、どうしてなのだろう?
「あの……、これも色々な話しがありまして……(笑)、当時、演歌歌手は "川" とか "水" とかが付くと売れるという説があると……。そう言われると、たしかに、たくさんいらっしゃるなと。もちろん、関係ない苗字でも、すごい方がいらっしゃるんですけども、でも、やっぱり、石川さゆりさんとか、川中美幸さんとか、美川憲一さんとか……。」
「それで、"川" が付く名前がいいなってなった時に、"市川って歌手でいないよね" って話しになったんですね。だったら、もし、"市川先生から市川をいただきました" ってデビューしたら、新人の歌手が市川先生の市川をいただいたってことは、すごいアピールと言うか、もうスゴイことになるじゃないですか。まず、皆さん、お客さんが見ていただく目が違うし、まぁ……その分、背負う物も大きいけれども……。」
「それで、市川先生に電話をしたら、"いいよ〜" って……(笑)」
そんな軽い感じだったとは驚きだ。にわかには信じがたい話だが本当のようだ。
「そうなんです、ホントに……(笑)、もうウソみたいな話なんですけど〜。だから、"先生、そんな簡単にいいんですか? あの市川先生の市川をいただきましたということで、市川由紀乃という名前でデビューしてもいいんですか?" ってい言ったら、"いいよ〜! 僕の市川をどうぞ〜!" って……(笑)。」
もちろん、市川昭介も、市川由紀乃にレッスンこそしていなかったものの、その実力や可能性を感じていたからこそだろう。しかし、名前をもらっているのに、実際はレッスンもしていないし、楽曲も市川昭介の作品ではないという、なんとも不思議な状態だ。
「そうなんです……。だから、市川先生の市川をいただきましたって言っても、"あなた、市川先生の歌がデビュー曲じゃないじゃない" って、すごい言われました……。」
それはそれで大変だっただろうと思う。市川昭介から名前をもらったと言えば、世間的に見れば、鳴り物入りの一番弟子に見える。
デビュー曲の『おんなの祭り』から、1998年1月発売の8枚目のシングル『花乱舞』までテイチクからリリースし、1998年10月発売の9枚目のシングル『一度でいいから』からは、現在も所属するキングレコードに移籍し、2000年の11枚目となるシングル『海峡氷雨』(作詞:木下龍太郎、作曲:市川昭介)で、ようやく、初めて師匠である市川昭介の作品を歌った。
「そうです、デビューして 7年経って、その間、色んな先生にご指導いただいていたので、"今だったら、少しは先生がおっしゃっていることが理解出来るんじゃないか" という判断だったみたいです。」
「それまで、毎回、新曲をいただく時には、"次はこの先生のこの楽曲ね……" っていう風に、歌詞とデモテープをディレクターさんが事務所に持ってきてくださるですけど、渡されるまでは、どの先生なのかが分からないんですよね。で、詞を渡された時に、木下龍太郎先生のお名前があって、ディレクターさんがそのテープをかけた時に、もう声で "市川先生だ!" ってわかって、すごい嬉しくて泣きました。」
そこから、市川昭介のレッスンが始まったが、うわさ通り、厳しいものだった。
「厳しくて、細かいです……、やっぱり。あのー、まず『海峡氷雨』のレッスンに行かせていただいた時に、出だしが "♪明日の船でも いいはずなのに" っていうフレーズなんですけど、明日の "あー" っていう、このまず "あー" が違うって言われて、それでまず1時間です……。"明日" の "あ" から "す" に行けないんですよ。"その あ じゃない!" って……。」
「で、今度は、"あす" まで行けても、その先がまた進まなくて……、レッスンは 2〜3時間いただいてたんですけど、ワンコーラスを歌う切ることが出来なかったんですよね。それで、"あ、もうダメ、今日は終わり、また今度" って言われて……。一番最初のレッスンが、そういう感じだったので、もうそこで、やっぱり心が折れるって言うか……。」
名前をもらった時は、軽い感じだったが、実際のレッスンは、噂に違わず、それほど厳しいものだった。
そして、初の市川昭介作品『海峡氷雨』から、『絆坂』『さいはて海峡』と 3作続けて 市川昭介が作曲し、2001年10月発売の13枚目のシングル『さいはて海峡』は、自身初となる オリコン 週間シングル 演歌歌謡ランキングで初登場 1位を獲得した。最初は、市川昭介が何を言っているのかすらサッパリわからなかったが、それもだんだんわかるようになっていった。
「少しづつ……、ですね。でも、実際、本当にわかったっていうのは、一度、4年半辞めて、また戻ってきて、先生に曲を書いていただいた時ですね。その時は、先生が色んなことを本音で話してくださったので……。」
7 追い詰められて 4年半の引退… 〜「私の判断で奪ってしまったのかなって…」〜
市川由紀乃は、デビューして9年目、26歳のころ、2002年4月から4年半の間、歌手を完全にやめていた時期がある。体力的にも精神的にも追い詰められてしまったからだ。
「あの……、なんか、こう……歌を歌うのに何が正解なのかが分からなくなってしまって……。"どうしたら上手く歌えるのかな? とか、どんどん頭でっかちになってっちゃうんですよね……すごく。それで、当時お世話になっていた社長から、"やっぱり演歌をキチンと歌える歌手ってのがまず前提だ" って言われていて、もちろん、そりゃそうなんですけど……、でも、色んな先輩方の歌を聴くと、自分の年齢の時には、こんなにすごい表現をされているのに、なんで自分は出来ないんだろう?……とか、だんだん卑屈になって、自分自身を追い詰めていくようになって、もう精神的に色んなコトが耐えらんなくなっちゃったんですよね。」
「その時に、悩みながら走り続けているんだったら、もう今までのこの10年を無くなったものとして、新たな人生を生きるっていうことを選びました。」
それくらい追い詰められていたということだが、やめるというのは、すごい決断だ。
「ですね〜、今、思うと。」
思うように売れてないということも、あったのかもしれない。
「そうですね……。」
その真面目で、歌にストイックな性格ゆえに、全て自分のせいにして、背負いこんでしまったのだろう。
「あ、それはありましたね。ありましたし……、あの当時、やっぱり色んな人と自分を比較してましたね。"なんで、あの娘が!" とか思ってしまったりとか、"あの娘が出来て、なんで私には出来ないんだ!" とか、全部が全部、もう悪い方向にしか考えられなくて……。」
「それに、あの当時、同年代の歌い手さんがすごく多い時代だったので、それでまた周りも、やっぱそういう風に比較するような声も聞くと、"私は私なのに!" って思っても……、追い詰められましたね。それで、色々と悩みました。」
そうして歌手をやめる決断をした。やめてからは、新宿にある老舗の天ぷら専門店「新宿 つな八 京王店」で、接客の仕事を始めた。
「やっぱり、生活していくには働かなければいけないから、ハローワークにも通ったんです。で、あの……、私、若いお客様相手っていうのがすごい苦手で、年配の方と接している時が一番自分らしくいられるというか……。となった時に、天ぷら屋さんで "つな八" って、大人の落ち着いた方が来られるお店なので、アルバイト雑誌のフロムエーを見て "あっ!ココがいいな!" って。」
その当時は、音楽番組は全く見なかったと言う。
「もう、全く見ないです。CD屋さんも、演歌コーナーには立ち寄らなかったです。でも、演歌以外は聴いてて、当時は、ミスチルとか聴いてましたね……、はい。」
そういうふうに、演歌を意識的に遠ざけていたが、一度だけ、演歌と触れる機会があった。
「あ、えっとですね、その……市川先生の同門会というのがあって、そこには参加させてもらいました。それこそ、はるみさんもいらっしゃって、畠山みどりさんとか、多岐川舞子さんとか、色々な方がいて。でも、その時は、市川由紀乃ではなく、本名の松村真利っていう名前で参加して、一人づつ近況報告をするコーナーがあるんですけど、ちょうど "つな八" でバイトしてる時だったので、"今は つな八 でアルバイトしてます" とかっていう話しをしました。」
そして、2006年10月に、通算14枚目となるシングル『海峡出船』(作詞:木下龍太郎、作曲:市川昭介)で、歌手に復帰することになるが、そのきっかけは何だったのだろう?
「復帰しようと思ったきっかけは、やっぱり家族ですね。家族は、私が歌っている姿をすごく楽しみにしていましたから。」
母も兄も歌が好きだったし、歌手デビューする前から、ずっと応援していた。
「そうですね。なので、ある意味、その二人の楽しみをひとつ、私の判断で奪ってしまったのかなって……。」
もちろん、最終的には、自分のためということにはなっていくが、まず、自分のことよりも、「母と兄のために」と考えたことが、市川由紀乃らしい。
「最初は、マイナスな方の考えでいたんですけど、社会に出て、自分が色々とミスをしたりとか、そういう時に、色んな人が助けてくださったりして、"あっ、こういうコトも社会に出ると経験するんだ……" みたいな経験をして、自分自身が、だんだん、なんていうのかな……強くなっていくのが自分で分かるというか……。」
社会を経験していない 17歳でデビューして、そのまま 9年間、歌手をやっていたわけだから、いろいろと新鮮な驚きや経験も少なくなかっただろう。
「で、この世界って、もうホントに色んな方が支えてくださるので……、でも、社会に出たら、やっぱり自分の身は自分で守らなきゃいけないので……、それで、"今だったら、たとえば色んな辛いことがあったとしても、きっと、自分で答えを出して、乗り越えて行けるんじゃないかな" って、そう思えてたんです。」
一度、離れてみて、社会も経験し、客観的に見つめなおすことが出来た。
8 夢が叶った紅白初出場… 〜「ホントに生きてて良かったと思いました…」〜
2006年10月に発売された『海峡出船』で歌手に復帰してからも、最初は不安が大きかった。
「いやー、復帰して……、まず、やっぱり、歌える喜びと、また市川先生の楽曲をいただけたので、その喜びはあったんですけども、それ以上に不安は大きかったです。」
「あの……、やっぱり一度やめて、なんでやめたのかとかそういうことがキチンと……なんて言うんですかね……、まだまだ知られていない歌い手だったので、皆さん、何か自然と消えてったみたいな感じで思われていて、フェードアウトされてる感じでいたので……。」
「でも、応援してくださってるファンの皆さんにとっては "なんで? なんで?" っていう、やっぱ疑問が残る中で、また戻ってきた時に、まずその皆さんに対する信用を取り戻すっていうことの難しさと、"また何かあったらこの娘やめちゃうんじゃない?" っていうように皆さんに思わせない仕事をするっていう自分へのプレッシャーが最初は強くて……、はい。」
そんな中、2008年に、ずっと応援してくれていた兄が亡くなった。実は、その時に、また、歌手をやめようと思った。
「あの……、一度、思いました……。思っただけで、行動は起こさなかったですけど……。これから先、何のために自分が歌っていく意味があるのかなとか……、思いましたね。亡くなった時には。」
ずっと応援してくれていた母と兄のためにと思い、歌手に復帰したからだ。きょうだいとしてはもちろん、歌手・市川由紀乃としても、それほど、兄の存在は大きかった。
しかし、今度はやめなかった。兄の遺品の中から「妹は歌手であって欲しい」という手紙が見つかった。
2013年2月に発売された、通算22枚目、復帰後9枚目のシングル『風の海峡』(作詞:麻こよみ、作曲:岡千秋)が、オリコン 週間シングル 演歌歌謡ランキングで初登場 1位を獲得。続く『流氷波止場』からは作曲を幸耕平が担当するようになり、『海峡岬』と 3作連続で、オリコン 週間シングル 演歌歌謡ランキングで初登場 1位を獲得し、その後も、昨年、2020年4月発売の『なごり歌』まで、10作連続で初登場1位の記録を続けている。
そして、2015年4月発売、通算25枚目、復帰後12枚目のシングル『命咲かせて』(作詞:石原信一、作曲:幸耕平)がリリース。現在の市川由紀乃のイメージを確立させた曲で、サビの「♪まぶた閉じれば 面影 揺れて〜」で泣かされるいい歌だ。この曲がヒットしたことで、このころから、なんとなく、それまでとは違った「売れてきた」という実感もあったようだ。
「あーっ……、まぁ、売れてきたっていうか……、毎作、毎作、初登場1位をいただくっていうことで、ファンの皆さんも、スタッフの皆さんも、"次もまた1位が獲れるように頑張ろう!" みたいな、皆さんが一丸となってっていう状況であったりとか、あとは、キャンペーンとかに行っても、来てくださるお客様の数がだんだん増えていったりすると、実感はしてきますね。」
この『命咲かせて』のヒットで、「NHK紅白歌合戦」への初出場が各メディアで有力視されていたが、結局、出場は叶わなかった。
しかし、翌年、2016年4月発売、通算26枚目となるシングル『心かさねて』(作詞:石原信一、作曲:幸耕平)も連続ヒットしたことで、その年、2016年(平成28年)「第67回 NHK紅白歌合戦」に初出場した。
歌手復帰から10年、歌手デビューからは、実に23年もの月日が経っていた。
「いや〜、ホントに生きてて良かったと思いました〜〜。ちょうど、この部屋で知らされたんです。キングレコードのお偉いスタッフさんが入って来られて、あの〜、なんて言うか……、一瞬、空気が変わったんですよね。それで、"なんだコレは?" と思いながらも、発表がその日なんじゃないかっていう噂を聞いていたので……、はい、ここで聞きました、おめでとうって。」
「もう自分の中では、一度、この歌の世界を離れていますし、また元に戻ってスタートするっていうことも、本来ならば、ホントに大変なコトで……。そんな中で、やっぱり、強い運をいただけたのかなって思います。」
「紅白歌合戦に出たいっていう気持ちは、もちろん、歌い手として大きな夢のひとつであったんですけど、でも、まあ性格もあるんですけど、私は "紅白に出たいです" ってことをずっと言わずに、言葉にすることなく生きてきて……。でも、もうこれは、逆に言葉にしないと叶えられないかもしれないって思った時が、その『心かさねて』の時だったんですね。」
「その前の『命咲かせて』の時、皆さんの "今年ひょっとしたら……" みたいなのを感じていたので、その……、初めて悔しかったというか……。自分の中でも、"声掛けていただけるのかな〜" とか、ちょこっと思っていた部分はあったので……。でも、そういう気持ちになれたこと、やっとここまで自分は来させてもらえたんだっていう喜びもありました。」
たしかにそうだ。『命咲かせて』の時、実際は出られなかったが、そういう話題になる歌手にまでなったという証でもあるし、そう話しているように、「悔しい」と思うレベルが格段に上がっていることでも、自身の成長を実感できた。
「だから、年が明けて『心かさねて』を出した時には、"今年は 紅白歌合戦 に出たいです" っていうのを初めて口にして、それで出られて……。なかなか夢って叶えられるものじゃないですけど、ホントに、たくさんの皆さんのお力があって、私は夢を叶えさせてもらえてるので……。やっぱり、大晦日に舞台に立って、スタッフの皆さんと一緒に新しい年を迎えるっていうのは、夢でしたね。」
初出場の「第67回 NHK紅白歌合戦」では、兄の遺品の中から見つかった「妹は歌手であって欲しい」という手紙を胸にしのばせ、母が客席から見守る中『心かさねて』を歌った。紅白で歌うことは、兄や母の夢でもあった。
「それはありますね……。客席で見てくれていた母は、もう泣いてましたし……。それで、私が帰るまで、一睡もせず待っていてくれて、家に戻って一緒にVTRを見て、"あ、紅白に出たんだね……" って、そこで初めて実感しました。」
9 レコ大 最優秀歌唱賞 受賞… 〜「自分の務めだと思っているので…」〜
紅白初出場の翌年、2017年の「第68回 NHK紅白歌合戦」にも 2年連続で出場し、そして、2019年1月に発売された29枚目のシングル『雪恋華』(作詞:石原信一、作曲:幸耕平)では、年末の「第61回 輝く!日本レコード大賞」で最優秀歌唱賞を受賞した。「その年、日本一上手く歌った歌手」という評価だ。
「いえいえ、もぅ〜そんな……。いやー、まさか自分がっていう想いはありましたし……。」
「でも、やっぱり『雪恋華』っていう作品に出会えたからこそ、最優秀歌唱賞っていう、その大きな賞に、楽曲が導いてくださったっていう思いがありますね。」
「だから、色んな意味で、私は運が味方になってると言うか……。その運と、皆さんが一生懸命応援してくださるその想いを無駄にしないように、じゃ自分には何が出来るのかなって思った時に、やっぱり、いい歌を唄う……、いい仕事をして、"また市川由紀乃を使いたい、呼びたい" って思っていただける仕事をしていくことが、自分の務めだと思っているので。その積み重ねを、きっと、色んな所で、誰かが見てくださっているって思うからこそ、より頑張れますね。」
『雪恋華』は、楽曲の良さもさることながら、市川由紀乃の歌唱の魅力が最大限に生かされるように作られている。「♪追われて ふたりは 冬の旅…」語りかけるように歌う Aメロの歌声からゾクゾクするし、サビの「♪雪が散る散る 恋が散る… もっと抱いてと しがみつく…」では、伸びやかで説得力のある歌声が耳に残るいい歌だ。
そして、この年、2019年は、12月にもう1枚シングルをリリースしている。「NHKラジオ深夜便」で 12月~1月度の「深夜便のうた」になった『懐かしいマッチの炎』だ。昭和を代表する作詞家・阿久悠の未発表詞に、幸耕平が曲を付けた作品で、それまでの市川由紀乃のイメージとはガラッと変り、メジャーキーでポップス調のバラード。豊かに響くやさしい歌声で、心に沁みてくるいい歌だ。
マイナーキーの演歌のイメージが強い市川由紀乃だが、実は、こういう、ポップス調でメジャーキーの曲もいい。以前、テレビ番組でカバーしていた小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』や、ちあきなおみの『役者』も抜群だった。
カバーと言えば、同じく、最近、テレビ番組でカバーして歌っていた、都はるみの『さよなら海峡』(作詞:吉岡治、作曲:市川昭介)は、師匠・市川昭介の作品だけあって圧巻だった。カバー曲として、自身のアルバムに収録しているということもあるが、まるで持ち歌のように歌っていた。
「いえいえ、とんでもない! 恐れ多いです……。はるみさん、ひばりさん、青江三奈さんとか、一世を風靡された、時代を築かれた方々の歌をカバーするって、もう、毎回ですけど、責任感と、いい意味でのプレッシャーがすごいです……。でも、そういう歌に挑戦できるっていう喜びは毎回あります。」
ちなみに、『懐かしいマッチの炎』のカップリングに収録されている『珊瑚抄』(作詞:岡田冨美子 作曲:幸耕平)も、南国風のポップス調で、キュートな歌声が楽しめる。
そして、昨年、2020年4月に発売された『なごり歌』(作詞:吉田旺、作曲:幸耕平)では、昨年末の「第53回 日本作詩大賞」で大賞を受賞した。
紅白出場、レコ大最優秀歌唱賞受賞、10作連続で オリコン 週間シングル 演歌歌謡ランキング 初登場 1位を継続中と、名実ともに、人気歌手となった市川由紀乃。
2019年7月5日~18日には、大阪・新歌舞伎座で初座長公演『新歌舞伎座開場 60周年記念 市川由紀乃 特別公演「島倉千代子七回忌 追善 人生いろいろ~島倉千代子物語~ / 市川由紀乃 オン・ステージ」』が開催。島倉千代子のカバーも絶品だ。
また、自身のコンサートだけでなく、山内惠介、三山ひろしらと「三波春夫の追善公演」をやったり、今年、2021年1月1日には、オヨネーズの『麦畑』のカバーも収録された福田こうへいとのコラボ企画アルバム『演歌 夢の競演』もリリースされ、生配信コラボ・コンサートも行われた。
もちろん、テレビ番組の出演も多く、カバー曲を覚えなければならないことも多い。そんな忙しい中でも、普段、音楽はよく聴いていると言う。
「はい、聴きます。プライベートはですね、やっぱり "ヒゲダン"さん(Official髭男dism) とか、昔から好きな星野源さんとか、サカナクションさん、あいみょんさん、JUJU さんも好きですし、あと、King Gnu(キングヌー)さん……。あのー、やっぱり、皆さんがいい歌だなとか、ヒットチャートとかに上がってくると、どういう歌が支持されているのかなとか、気になりますし……。」
半分は、職業的な興味もあるようだ。
「それもありますね……、はい、それもあります。」
今後、どういうふうになっていきたいのかを聞いてみた。
「う〜ん……、そうですね……、とにかく、まずはやっぱりキチンと、"市川由紀乃・演歌歌手" っていうのを皆さんにひとりでも多くの皆さんに知っていただきたい思いますし、あとは、ジャンル問わず、色んな歌を歌を歌って行きたいっていう夢もあります。」
具体的には、どんな歌を歌ってみたいのだろう?
「アニメソングですね……。」
ちょっと前から、「鬼滅の刃」にハマっている。もちろん、映画は何度も観に言っているが、映画がヒットする前から大好きで、昨年、ステイホーム期間中には、「鬼滅の刃」のコスプレで YouTube に登場していたりもする。
そういう話をする時の市川由紀乃は、マイナー調の情念演歌を歌う時のイメージとは全く違う。と言うよりも、そもそも、普段は、とても明るく爽やかな人だ。
吉本新喜劇も大好きで、毎週録画で見ていると言う。NHK大阪放送局が制作している番組『バラエティー生活笑百科』には、新喜劇に出ている芸人が多く出演しているが、以前、この番組にゲスト出演した時に、辻本茂雄と山田花子に「おいっ!由紀乃〜っ!」とつっこまれたことが嬉しかったと言う。
すでに「聴いてて気持ちのいい演歌を歌う歌手」だと思うが、「私はまだまだ未完成……」と言う市川由紀乃の歌は、おそらく永久に完成することはないと思う。いくらうまくても、「もっとうまくなりたい」と思うのが歌手だからだ。
でも、だから、どんどん進化していく市川由紀乃を見ることができる。今後がますます楽しみな歌手だ。
(取材日:2021年2月5日 / 取材・文:西山 寧)
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2020年10月1日 東京国際フォーラム
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