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Oka Midori
丘 みどり
Album 「丘みどり 15周年ベストアルバム」
★ 2017年「佐渡の夕笛」のヒットで「NHK 紅白歌合戦」初出場! 3年連続出場中!
★ デビュー曲から紅白初出場曲「佐渡の夕笛」など、15年間の全シングルを収録!
★ 一度聴けば好きになってしまう最新曲「五島恋椿 /白山雪舞い」も収録!
★ さらに、ファン投票によって選ばれた2曲を収録した全16曲!
★ 心を打つ圧倒的な歌唱… 丘みどりの軌跡を辿るアンソロジー・ベストアルバム!
リリース情報

丘 みどり 「丘みどり 15周年ベストアルバム」
アルバム CD(全16曲入)
2020年10月7日発売
KICX-1117
¥3,200(税込)
KING RECORDS
収録曲
01 おけさ渡り鳥 デビュー曲 2005年08月24日発売
作詞:松井由利夫/作曲:四方章人/編曲:南郷達也
02 日御碕灯台 2nd Single 2007年07月25日発売
作詞:麻こよみ/作曲:水森英夫/編曲:南郷達也
03 風鈴恋唄 3rd Single 2008年09月03日発売
作詞:松井由利夫/作曲:四方章人/編曲:池多孝春
04 北国、海岸線 4th Single 2010年11月10日発売
作詞:坂口照幸/作曲:四方章人/編曲:南郷達也
05 木曽恋がらす 5th Single 2012年05月23日発売
作詞:峰崎林二郎/作曲:影山時則
06 椅子 6th Single 2014年05月14日発売
作詞:峰崎林二郎/作曲:花岡優平/編曲:川村栄二
07 何度も何度も 〜母への想い〜 6th Single「椅子」カップリング曲
作詞:峰崎林二郎/作曲:花岡優平 ※ファン投票曲
08 霧の川 7th Single 2016年6月22日発売
作詞:仁井谷俊也/作曲:弦哲也/編曲:前田俊明
09 別離(さよなら)の切符 7th Single「霧の川」カップリング曲
作詞:石原信一/作曲:弦哲也/編曲:前田俊明 ※ファン投票曲
10 佐渡の夕笛 8th Single 2017年2月8日発売 両A面
作詞:仁井谷俊也/作曲:弦哲也/編曲:南郷達也
11 雨の木屋町 8th Single 2017年2月8日発売 両A面
作詞:喜多條忠/作曲:愛田健二/編曲:丸山雅仁
12 鳰の湖 9th Single 2018年3月7日発売 両A面
作詞:たかたかし/作曲:弦哲也/編曲:前田俊明
13 伊那のふる里 9th Single 2018年3月7日発売 両A面
作詞:たかたかし/作曲:弦哲也/編曲:前田俊明
14 紙の鶴 10th Single 2019年2月13日発売
作詞:さいとう大三/作曲:弦哲也/編曲:前田俊明
15 五島恋椿 11th Single 2020年1月29日発売 両A面
作詞:さいとう大三/作曲:弦哲也/編曲:南郷達也
16 白山雪舞い 11th Single 2020年1月29日発売 両A面
作詞:喜多條忠/作曲:弦哲也/編曲:矢野立美
丘みどり パネル&衣装展が 新宿で開催中!
タワーレコード新宿店にて、「丘みどり15周年ベストアルバム」 の発売を記念したパネル&衣装展が、10/6(火)~10/19(月)まで開催中!
パネル展は貴重なコンサート写真を使用、衣装は実際の着物を展示するなど、盛り沢山な内容!
さらに、タワーレコード新宿店にて、「丘みどり15周年ベストアルバム」を購入すると、抽選で展示されたパネルがプレゼントされる!(応募券配布期間:10/6 ~10/18)(プレゼントのパネルは丘みどり直筆サイン入りを予定)
<開催概要>
丘みどり「15周年ベストアルバム」発売記念パネル&衣装展
期間: 2020/10/6(火)~ 2020/10/19(月)
会場: タワーレコード新宿店 8階下りエスカレーターショーケース
丘みどり ロング・インタビュー

丘みどりの歌は、その場を圧倒する。丘みどりが歌い始めると、一瞬にしてその場の空気が変わる。その場にいる人に耳を傾けさせ、知らぬ間に、丘みどりの世界に巻き込んでしまうような、圧力感と説得力を感じる。歌声に、そんなチカラがある。紅白に3年連続出場中なのも納得できる。
しかし、丘みどりは、数年前に、突然、売れたわけではない。
デビュー15周年とは言っても、最初の約10年間、全く売れない、つらい時期があった。しかし、だからと言って、必ずしも楽曲や歌唱が悪かったわけではない。
ヒット曲は、タイミングや運も含め、様々な複合的な要素や条件が重なった時に生まれる。10年間も売れなかったのには、何らかの理由があり、何かが足りなかったのかもしれないと思うが、その理由は、ひとつではないかもしれないし、目には見えないものかもしれない。
ただ、ひとつ確実に言えることは、その10年間も決して無駄だったわけではなく、その10年間があったからこそ、今の「丘みどり」があり、全てが今に繋がっている。
売れて本当に良かったと思う……。
丘みどりが歌っている時の鬼気迫る表情だけを見ると、美人でもあることもあり、「キツイ性格の子なのかも……」と感じている人がいるかもしれないが、実際は、全くそんな感じはなく、むしろ、普段から誰にでも分け隔てなくフレンドリーで、いつも明るくニコニコしていて、謙虚で礼儀正しく、素直で丁寧だ。
明るい口調でハキハキとテンポ良く話す「フレンドリーでキュートな関西のコ」といった感じで、実際の丘みどりは、バラエティ番組で見るあのままだ。だから、志村けんの番組で、水をかぶったりもする。
しかし、今では想像することは難しいが、以前は、人前で歌うことも「恥ずかしい」と、どこかで思っていた。もともと、芯の強さがあり、歌手としての高いポテンシャルも持っていたのに、だから、それらを出し切ることができないでいた。
ある時、それを変えさせた人物との出会いがあり、そこから「丘みどり」は変わった。歌の世界に入り込み、その歌の主人公になり切って演じて歌う……、今では「凄み」さえ感じさせる。
売れなかった理由はわからないが、その出会いは、間違いなく、売れた理由のひとつだったと思う。
デビュー15周年記念の『丘みどり 15周年ベストアルバム』は、2005年のデビュー曲『おけさ渡り鳥』から、紅白初出場の曲『佐渡の夕笛』、今年、2020年発売の最新シングル『五島恋椿』と『白山雪舞い』までの全てのシングル曲に加え、ファン投票で選ばれた、シングルのカップリング2曲を加えた全16曲が収録されている。まさに、歌手・丘みどりの軌跡を辿ることができるアンソロジー的なアルバムだ。
ブレイク前、最初の10年間のシングル曲とカップリング曲の計7曲は、オケはそのままに、歌を録り直した。だから、今の「丘みどり」の声で、15年間の全てを聴くことができ、感じることができるアルバム。
歌が一流であることは間違いないが、頭の回転も速く、何を求められているのかを瞬時にわかってくれる……。「一流とはこういうものだ」ということを感じさせる人だ。
<もくじ>
1 デビュー15周年記念ベストアルバム 〜「そういう悔しい思いは山ほどあるので…」〜
2 全く売れなかった10年間 〜「地元ではキャンペーンしないでくれ…」〜
3 10年目に上京を決意すると… 〜「無理だったら姫路に帰ろうっていう気持ちで…」〜
4 亡き母を歌った『椅子』 〜「はじめてコンサートで歌った時には泣きましたね…」〜
5 丘みどりの歌を劇的に変えた花柳糸之との出会い 〜「新しい仮面をかぶって歌いなさい…」〜
6 作曲家の弦哲也が引き出した声の魅力 〜「一回作っちゃうと、それを崩すのは大変なので…」〜
7 原点は民謡と鳥羽一郎 〜「"なんてかっこいいんだ!" と思って…」〜
8 一度はアイドルグループに所属 〜「イチから音楽の勉強をしようと思って…」〜
9 念願の全国キャンペーン 〜「マスクの中がベチャベチャになるくらい、よく泣きました…」〜
10 夢はラスベガス公演 〜「日本の文化を背負って…」〜

1 デビュー15周年記念ベストアルバム 〜 「そういう悔しい思いは山ほどあるので…」〜
2005年に、シングル『おけさ渡り鳥』で、バップ(レコード会社)からデビューした「丘みどり」は、最初の約10年間、全く売れなかった。
2007年、2枚目のシングル『日御碕灯台』からは、レコード会社を徳間ジャパンコミュニケーションズに移籍し、2014年の6枚目のシングル『椅子』までをリリース。その後、2016年からは、キング・レコードに移籍し、移籍第1弾となった7枚目のシングル『霧の川』が、オリコンの「週間 演歌・歌謡 シングルチャート」で初めて1位を取り、翌年、2017年発売の通算8枚目のシングル『佐渡の夕笛』がヒットしたことで、「NHK 紅白歌合戦」に初出場した。
実は、デビューからキング・レコードに移籍するまでの約10年間は、大阪のプロダクションに所属し、大阪に住んでいた。2016年に上京し、所属プロダクションもレコード会社も移籍してから売れ始めた。
デビュー15周年記念の『丘みどり 15周年ベストアルバム』は、2005年のデビュー曲『おけさ渡り鳥』から、紅白初出場の曲『佐渡の夕笛』、今年、2020年発売の最新シングル『五島恋椿』『白山雪舞い』まで、売れなかった10年間を含めた全てのシングル曲に、ファン投票で選ばれた、シングルのカップリング2曲を加えた全16曲が収録されている。まさに、丘みどりの「これまで」と「いま」を感じることができるアルバムだ。
今回、最初の10年間のシングル曲とカップリング曲、計7曲に関しては、オケは当時のままに、歌だけを新たに録り直した。
「デビューしてから10年目まで、東京に出てくるまでのものは、カラオケはそのままで、歌は全部、録り直しました。そう……、なんかこう……、いまの丘みどり、15周年を迎えた丘みどりの声で聴いてもらいたいなと思って。昔のCDを持っていらっしゃる方もいらっしゃると思うんですけど、聴き比べたりしながら、また楽しんでもらえるかなと思うので、あえて録り直しました。」
決して、以前の歌唱がよくなかったわけではない。新鮮な感じだったり、その時々の良さがある。しかし、今とでは、歌声が大きく違うため、1枚のアルバムにしてしまうと、多少の違和感が残ってしまう。あらためて録音し直したことで、アルバムとしての統一感も出て、同時に、丘みどりの15年間の軌跡を感じることができるようになった。
「なんか……、レコーディングしなおすと、たとえば『おけさ渡り鳥』だったら、"おへそ出して歌ってて、この時こういうことがあったなぁ" とか、1曲1曲に思い出があるので、あらためて、自分でも15年を振り返れた感じがしたので、良かったなーって思います。」
2005年のデビュー当時は、今のような和装ではなく洋装で、しかも、ミニスカートの「ヘソ出しルック」という衣装だった。音楽は、それを聴いていた頃の思い出や感情までも呼び起こすが、歌い直して辛かったりはしなかったのだろうか?
「やっぱり、思い出しますね〜。なんか、こう……、これを歌ってた時、スナックでお客さんに "もっと歌勉強してこい!" って言われたとか、"なんや!その格好は!" とか言われたなぁ〜とか……。そういう悔しい思いは山ほどあるので、そういうこと思い出しながら……。でも、いま、こうやって15周年のベストアルバムとして発売できるようになれたんだから、あの経験も良かったのかなっていう風に、逆にプラスに捉えることができました。」

2 全く売れなかった10年間 〜「地元ではキャンペーンしないでくれ…」〜
デビューの時の「ヘソ出し」衣装は、本人はイヤだったかもしれないが、レコード会社やプロダクションからすれば、売るための手段や戦略としては、決して間違ってはいない。ビジュアルも良かったから、『アイドル歌手のようなハタチそこそこの子が、ヘソ出し衣装で股旅演歌を歌っている」というのは、一般的に見れば面白い。今、振り返ってみて、知ってもらうための手段として「それもアリだった」と思っているのだろうか?
「まぁ〜でも〜、全く知ってもらえてなかったので〜(笑)、いま、振り返って "ホントによかったなぁ〜" って思えることがあるとすれば、"こういう時に話せる" ってことだけですね(笑)。」
「あと、たまたま、お仕事でご一緒したダウンタウンの浜田さんが、"ヘソ出してた ねぇちゃんや〜! おぼえてんで〜" って言ってくださって、そういう方が、本当に何千人に1人ぐらい、いらっしゃるので〜、あはは……(笑)、そういう方に出会えた時は、"あっ、あれ(ヘソ出し)にも意味があったんだ〜" っていう風に思えるし、なんだろうな〜……、なんかいろんな経験ができたなっていう意味では、人としてちょっと成長できたかなって思います。」
そもそも「ヘソ出し」衣装は、当時、イヤだったのだろうか?
「ものすごいイヤ……、あっ、私がイヤというよりは、家族がめっちゃくちゃイヤがってて……、もう、おばあちゃんは泣いてとめたし……。"恥ずかしいから、もう地元ではキャンペーンしないでくれ" って、おばあちゃんは言うぐらいやったし。あと、うちの弟は、"お前のねえちゃん、ヘソ出して演歌歌ってんや〜、やば〜" って言われたりとかしてたみたいなので(笑)。なんか、"まわりのみんなに迷惑かけてんな〜" って思って……。でも、私はデビューしたい一心で、"ヘソ出しだろうが何だろうがやろう" って決めてたので、イヤというよりかは、周りを悲しませてるのがツラかったっていう感じですね……。自分は、もう腹をくくって、もう "これだ" って言われたら、そのまま受け入れて、勝手にやってたことなんで。」
もちろん、デビューしたてのころは、デビューした嬉しさもあり、「これからだ!」という希望に満ち溢れていただろうし、『演歌百撰』という関西で制作されていた全国28局ネットの歌番組に、アシスタントとして長くレギュラー出演もしていたが(2010年〜2015年)、さすがに、売れない時期が10年も続くとツラい。
「そうですね……、はい。売れてないっていうのもそうですけど、"ちょっとずつ、ちょっとずつ売れていく" とか、そういうのも一切なくて、ずっと一緒だったので……。10年間ずっと一緒のまま、一緒の場所で歌って、一緒の道を歩いてる感じで、長かったですね……、このトンネルに出口はあるのかと思っていました。」
「あと、やっぱり、スナックなり、レコード店の店頭キャンペーンだったりを、もっとしたかったんです。もっとしたかったんですけど、その "歌える場所すらない" という、歌いなくても歌えないという時期が長かったのがツラかったです……。売れないというよりかは、"歌えない" っていう……。」

3 10年目に上京を決意すると… 〜「無理だったら姫路に帰ろうっていう気持ちで…」〜
しかし、約10年間、売れなかったとは言え、決して楽曲が悪かったわけではないし、歌唱も悪くない。股旅演歌風のデビュー曲『おけさ渡り鳥』はキャッチーな歌だし、ミディアムンポのメジャー調で、アンコに『南部牛追唄』が入った3枚目のシングル『風鈴恋唄』もいい。マイナー3連の『北国、海岸線』などは、楽曲もいいし、歌も若々しく、よく歌えている。なぜ、この大阪での10年間は売れなかったのだろう?
「う〜ん……、自分ではよくわかりませんけど……、ただ、"なんで、もっと、みんなみたいにキャンペーンできないんだろうな……、なんでなんだろう?" っていうことをずっと思ってた時代でしたね……。」
「でも、"なんでですか? なんでですか?" って事務所に言うだけで、結局、自分では何も行動をしてなかったので……。それで、10年経った時に、自分の足で、もう一回ラストチャレンジとして、東京に行ってみて、無理だったら姫路に帰ろうっていう気持ちになったんです。自分の足で立って、自分で何か行動を起こしたのが、10年で初めてその時だったんです。」
演歌歌手として21歳でデビューしたものの、売れない10年間を過ごした後、2016年に、自らの意思で、上京した。「ずっと何も変わらないのなら、自分からアクションを起こしてみよう」と考えた。
「なんか……、もう30歳で、デビューして10年だったので……。大阪の事務所にも、"もう何月までで結構です。この先続けても意味がないし、もう私辞めます" って言ったんです。それで、残りの契約期間が半年ぐらいだったんで、あと半年を後悔ないように、"思い切って楽しんで、や〜めよっ!" って自分の中で考えてたんですけど……、そしたら、すごい仕事が楽しくなったんです。」
「歌ってる時とかもそうですし、もともと、あんまりトークとかは出来ないタイプだったんですけど、"もうここで皆さんに会うこともないし、恥ずかしい思いをしてもいいや" と思って、自分が楽しめるようにしようと思って、色んなお話をしたりとか、普段、歌わないような歌とか歌ってみたりとかしたら、すごい仕事が楽しくなってきて……。そんな時に、東京のバラエティ番組だったりとか、『週刊ポスト』の美人演歌特集みたいなのとか、なんかそういうのにも、ちょっとだけ声をかけてもらえるようになっていったって感じだったんです。」
2014年ころ、『演歌百撰』にアシスタントとして出演していた時、番組で歌っていた「丘みどり」を偶然目にした徳光和夫が、自身の番組『徳光和夫の名曲にっぽん 昭和歌謡人』に呼んで出演したこともあった。
「はい、そうですね。"もうやめよう" と思って、楽しんでた時期ぐらいの時、徳光さんにも、"東京に出てきたいですけど誰か紹介して下さい!" って言って、相談をさせてもらいました。」
そんな風に「残りの半年を楽しんで辞めよう」と思ったことで何かが変わり、それまでは出すことができなかった自分を思い切って出せるようになったのだろう。そうなったことで、それ以前よりも、丘みどりの魅力も、より際立ってきて、結果、周りの反応も違ってきたことを感じたからこそ、「もう一度、自分からアクションを起こしてみよう」と思えたのだろう。デビュー10年目にして上京し、プロダクションも、レコード会社も変わって、全てが一新した。まず、プロダクションを自分で探した。
「そうです、全部、自分でやりました。自分で資料も書いて、いろんなところに送ったりもしてましたし、色んな人に、もうほんの少しの知り合いとかにも全員に "事務所紹介してください!" って言ってまわってました……。それこそ、歌手だったら美川憲一さんに相談したりとか、"誰か紹介して下さい! 事務所を知ってる人を紹介してもらうだけでもいいんで! " って、そういうことを言いながら、色んな人に会ってました。"私、こうこうこうで、東京に出てきたいんです" って色んな所に相談をして、結構、いろんなところとお話をさせていただいて、ようやく拾ってくれたのが今の事務所だったんです。」
そうして、現在の所属プロダクションが決まり、そこから、レコード会社も、現在のキング・レコードに決まった。

4 亡き母を歌った『椅子』 〜「はじめてコンサートで歌った時には泣きましたね…」〜
2016年に上京するまで、大阪時代の10年間で、とくに思い入れのある曲を聞いてみた。
「ま〜そうですね〜、やっぱりデビュー曲……ですね。やっぱり、自分の曲を頂けた喜びと、この曲で、これからすごい輝かしい未来が待ってるんだろうなっていう……(笑)、希望に満ち溢れてた時だったので、その時のレコーディングの時の先生の言葉とか、風景とか、いまだにすっごくを覚えてますね。もうホントにうれしくて、鳥肌立ちましたね、やっぱり……。"これが自分の曲だ!" っていう感じで。」
「あとは、(大阪時代の)最後に歌った『椅子』とか、『何度も何度も〜母への想い〜 』とかは、もう、やめるって決まってたからこそ、最後に母への感謝の気持ちだったりとか、お母さんへの想いを歌って、"悔いのないように、この歌手生活を終えよう……" と思って作っていただいた曲だったので。」
歌手デビュー10年目、上京前、徳間ジャパンコミュニケーションズからの最後のシングルとなった、2014年5月発売の『椅子』と、そのカップリングの『何度も何度も 〜母への想い〜』は、花岡優平が作曲した曲で、それまでとは全く違うポップス調のバラードだ。2曲とも、亡き母への思いを込めた歌だった。
「そうですね……。それと、この時、"どういう曲が歌いたいの?" って初めてディレクターさんに言ってもらえたので、" 私は、お母さんの歌が歌いたいです" っていう風にお願いをして作ってもらった曲なんです。」
丘みどりの母親は、2006年に、47歳の若さで他界している。現在でも、当時のレコード会社、徳間ジャパンコミュニケーションズの 公式 YouTube チャンネルに、『椅子』の制作過程を収めたドキュメント映像が残されている。次のシングルでは「母への想いを歌いたい」と丘みどり本人から言い出したようだ。
「最初に詞が出来上がって、それから、メロディーが出来上がって……、で、私としては、当然、それまでのように演歌だと思ってたので、聴いてビックリしましたね。」
それまでのシングル5作は全て演歌で、この『椅子』が、初めてポップス調の曲だった。しかし、そのことで、新しい一面も出ているように思う。高い音では、今では、あまりしないような声の張り方をしていて新鮮だ。
「はい、そうですね。自分にとって、新しいチャレンジの曲だったかな〜って思います。」
「最初、歌詞の意味だったりとか、そもそも "椅子" が何のことなのかがわからなくて、で、先生にお聞きして、"あ〜そういうことなんだ〜" ってわかってからは、やっぱり、この曲を大切にしようと思いました。それまでは、結構ノリが良かったりとか、手拍子したりとかする曲が多かったので、なんかこう皆さんに、しーんと黙って聴いてもらう歌っていうのが、案外なかったので、そういう意味では、"ちゃんと歌わなきゃ”って思いました。」
亡き母のことを歌っていると知ってから、そして、「椅子」が「居場所」のような意味だとわかってから、この歌を聴くと泣けてくる。
「そうですね……、この曲をいただいて、はじめてコンサートで歌った時には泣きましたね……。」
「優しいけど、とっても厳しい母でしたね。全てに関して厳しかったですけど……、門限とかも厳しかったですね。弟はなかったんですけど、私は高校生のときもずっと6時で、6時が過ぎると鍵が閉まるので、次、お父さんが帰って来るのが7時ぐらいなんですけど、それまで待って、父と一緒に入ったりしてました(笑)。しれっと入りますけど怒られますね。」
「でも、人と違うことをしたら褒めてくれる母だったんです。"みんながピアノ習ってるからピアノ習いに行きたい" って言ったときも、"ピアノが習いたいなら習っていいけど、みんながやってるから習いたいならダメ”って言ったりとか……。"みんなが赤い筆箱持ってるから、赤い筆箱が欲しい” って言ったら怒られるから、"みんなが赤い筆箱持ってるから、黄色の筆箱が欲しい”って言ったら、"じゃあ買ってあげる" って言って買ってくれるるような、なんか、ちょっと違うことしたら褒めてくれるみたいな母でした。きっと、母も父も、すごく平凡で内気で、みんなと足並みを揃えて生きてきた人生だったから、この子にはそうなってほしくないっていう思いが強かったんだと思いますね。」
だから、歌手になることに関しては、母親も賛成だった。
「母は、もう、すごく応援してくれました。"いいと思う〜!" って言ってくれて。なので、一番最初の芸能事務所の、大阪のアイドル事務所のオーディションにも、母と二人で行ったんです。とにかく応援してくれてました。」
母には、2005年の歌手デビューこそ見せることが出来たが、2016年、上京後の活躍や、2017年の紅白初出場を見せることは叶わなかった。どんなに見せたかったかと思う。

5 丘みどりの歌を劇的に変えた花柳糸之との出会い 〜「新しい仮面をかぶって歌いなさい…」〜
2016年に上京してからリリースされたシングル『霧の川』以降で、とくに思い入れのある歌を聞いてみた。
「う〜ん……、やっぱり『佐渡の夕笛』ですかね……。やっぱり、この曲で紅白に出場できたので。」
2016年のシングル『霧の川』に続く、翌2017年に発売された通算8枚目のシングル『佐渡の夕笛』のヒットで、紅白にも初出場し、一躍、全国区の歌手となった。『佐渡の夕笛』は本当にいい歌だ。仁井谷俊也による切ない歌詞に、弦哲也による耳に残るメロディ、そして、南郷達也の手によるドラマティックなアレンジ……、と、楽曲そのものの良さはもちろんだが、何より、丘みどりの歌唱が圧倒的だった。
冒頭「♪荒海に あの人の……」と、丘みどりが歌い出した瞬間から、その場の空気が変わる。その場にいるすべての人を魅きつけ、その場を支配するようなチカラを持った歌声だ。この『佐渡の夕笛』から、歌唱が大きく変わったように思う。
「そうですね……、やっぱり一番のきっかけは、『佐渡の夕笛』で、花柳糸之先生に出会えたってことが、一番、大きいです。」
この『佐渡の夕笛』から、業界では知らない人のいない大御所の振付師、花柳糸之が丘みどりの振り付けを担当するようになった。
「まず、"歌いながら演じるということをしっかりやっていきなさい" っていうことを言われました。"あなたの一番の弱点は、あなたの普段の性格が舞台に出てしまっていることだから" って言われて……。実は私、小さい頃から、人前に立つのがすごく苦手だったんです。それで、なんかちょっと恥ずかしいっていうのが舞台に出てるから駄目だって言われましたね。」
「それで、"あなたは、今日から『佐渡の夕笛』歌う時は、『佐渡の夕笛』の主人公だから、岡美里(本名)でも、丘みどりでもないから、新しい仮面をかぶって歌いなさい”って言われて……。それで、イントロで、こういう顔を隠すような振り付けをして、"この瞬間に、あなたはあなたではなくなりますっていうおまじないをかけなさい" って言われて、それで、"パッと開いた瞬間にはもう恥ずかしくない、だってみどりじゃないんだから" ってことをすごく言ってくださったんです。"お面をかぶった瞬間にまた別の人になる" っていう、あの振りには、そういう意味があるんです。」
たしかに、イントロ前半の、左手で顔を隠す振り付けは印象的だが、実は、歌の主人公になりきるために「変身」するためのポーズであり、自分の弱い部分を消し去る自己暗示の意味があったのだ。花柳糸之は、その弱点を瞬時に見抜き、ただうまく歌おうとすることだけでなく、「なりきること」「演じること」の大切さを教えた。歌手人生を変えた出会いだった。
「花柳糸之先生が、"そういうことなんだよ" ってことをおっしゃってくださってからは、思いっきり歌ったりとかすることに、恥ずかしさとか抵抗とかが一切なくなりましたね。"多少、音を外してもいいから、想いを込めて……、強い想いを込めたら絶対に歌が変わるから、それをやりなさい" っていう風に先生が教えてくださったので……、本当に花柳先生のおかげです。」
『佐渡の夕笛』では、サビ前「♪咲いても 迎えの 恋文(ふみ)は〜 ない〜」の ジャジャッ ジャジャッ というキメの振り付けも印象的でかっこいい。その振りが、2017年のころよりも、最近の方が、動きも大きくなっていて、キレもあるし、よりドラマティックだ。花柳糸之の教えを実践し身につけ、自信となっていった結果が、そんなところからも感じられる。
「あ〜、そうですかね〜。慣れからキレが出てきたみたいな……(笑)」

6 作曲家の弦哲也が引き出した声の魅力 〜「一回作っちゃうと、それを崩すのは大変なので…」〜
2017年の『佐渡の夕笛』以降、2018年は『鳰の湖(におのうみ)』で、そして、昨年の2019年は『紙の鶴』でと、3年連続で紅白に出場している。
そして、今年、2020年1月に発売された最新の両A面シングル『五島恋椿』と『白山雪舞い』という、王道の旅情演歌の2曲は、たしかに、両A面せざるをえないくらい、いずれも甲乙付け難いいい曲だ。
『五島恋椿』のサビ、「いつかふたりは あえますね」(1番)、「そっとふたりは あえますか」(2番)、「きっとふたりは あえますね」(3番)の部分などは、心の琴線に触れるようなメロディーに、裏声を使った丘みどりの豊かな響きの歌声で鳥肌が立つ。
「そうですね……、裏声は、これまでは、ほとんど使ったことないですね。」
『白山雪舞い』も、『五島恋椿』とは違ったタイプだが、同じように聴く人の心に染みてくる。サビの「ふわり ふわり」の部分なども、もちろん良いのだが、前サビの「あなたの面影を」のところがグッとくる。
「あ〜、あの駆け上がるところですね〜。いいですよね〜。」
2016年に上京し、現在のキングレコード所属になった『霧の川』以降は、シングル曲のほとんどを、弦哲也が作曲しているが、最新シングルの2曲が、それらの中でも決定版のように感じる。
「やっぱり、あの……、正直、弦先生の曲は難しいですね。なんかこう……、自分の一番低いところから高いところまでギリギリのところまで、いつも使うので……、『五島恋椿』もめちゃくちゃ音域が広いです。」
弦哲也は、ただ単に「ヒットするいいメロディ」を書いただけではなく、丘みどりの魅力的な声、オイシイ部分を引き出した。『五島恋椿』のように、丘みどりの最も魅力的な声が出る音域を使いながらも、かつ、音域を目一杯使うには、その歌手のことを、よく知っていなければできないことだ。そういうこともあってか、今回の2曲では、これまで以上に丘みどりの歌声の魅力が際立っているようにも感じるし、歌が変わったようにも思う。
「う〜ん……、そうですね〜、今回、とくに変えて歌ったってことはないんですけど、先生(作曲の弦哲也)に世界観を教えてもらって、先生の言う通りに歌ったっていう感じですかね(笑)。レコーディングの前に、いつもピアノでレッスンしてくださるんですけど、先生は私の意見をすごく尊重してくださるので、"こうやって歌うことであってますかね?”っていう風に先生に聞いて確認するみたいな感じです。先生が作ってくださった世界観を歌った感じですかね……。」
弦哲也がイメージした世界観を、見事に演じることができていると思う。
カバーの場合や、アマチュアが歌う場合、その見本ともお手本ともなるオリジナルの音があるが、自分のオリジナル曲となると、その見本をイチから作り上げなければならない。「もと」がないから、どういう風にでも歌えてしまう。絶対的な「正解」がない中で、その楽曲に対して、ベストの歌唱を考えて作り上げなければならない難しさがある。
「う〜ん……、やっぱり、"自分の歌い方!" っていうよりは、きっちりとその歌詞の世界、歌の世界観を理解してから歌おうってことを思っています……。あと、いつも、弦先生からのデモテープをいただくんですけど、ディレクターさんはからは "こんな感じで歌って" っていつも言われるんですけど、"いや いや いや いや 歌えないです……" っていつもそうなる……(笑)。」
弦哲也は、作曲家であるとともに、ギタリストでもあり、歌手でもあるため、提供する歌手に渡す自身が歌ったデモテープの歌には定評がある。しかし、その提供曲は、丘みどりをイメージして作った楽曲であるため、いくらうまく歌われているとは言っても、弦哲也の歌唱で歌われるものではない。もし、それと同じように歌ったとしたら違ってしまう。だから、自身のオリジナリティを出しながらも、求められているイメージを作ることも考えなければならない。
「そうなんです、そうなんです。自分で思っていることが正しいかわからないので、いつも、そこは先生に確認しながら、"こういう想いで歌ってるんですけど合ってますか?" とかを、弦先生だったり、作詞の先生に確認しながら、"自分で作り上げすぎない" ていうことを、気をつけています。もし、"それで合ってるよ" ってなったら、深く掘っていってもいいんですけど、レコーディング前には、あんまり作りすぎないようにしています。」
「"レコーディング前には、あんまり歌うな、練習するな" って、以前、大阪時代に、キム・ヨンジャさんに言われたんです。やっぱり、一回作っちゃうと、それを崩すのは大変なので……。それ以来ですかね。」
レコーディングの前に「作り上げない」ということの他にも、丘みどりが普段から気をつけていることがある。レコーディングで作り上げ、CDとなった歌唱が、ステージで歌っていくうちに崩れていかないように、日頃から気をつけている。
「そうですね、やっぱり、あの〜 自分のCDを聴きます。じゃないと、絶対に……、なんだろうな……、ステージで歌う時に、"ここは、もうちょっとタメた方が上手に聴こえるよな〜" みたいな、そういうのが、日々、知らないうちに付いてってしまうので……。やっぱり、CDと聴き比べて気がつきます。とにかく、CDの音源が一番いいんだってことは、ずっと思い続けています。」
よく、ベテランの歌手が、何十年も前の往年のヒット曲を歌うときに、レコードとは違う譜割りで、タメ気味に歌ったりしていることがよくある。それが「今の歌唱」だから、それはそれで悪くはないし、感動的でもあるが、多くの人は、CD通りの譜割りで聴きたいと思っている。
「そうなんですよね。あれは、きっと、歌手の方の……、私もそうなんでわかるんですけど、私もよく言われるので……。"みんなが聴きたいのは、CDの通りの歌なんだよ" って。みんなが聴きたいのは、CDの『佐渡の夕笛』だったり、CDの『霧の川』が聴きたいんだから、"その歌い方のアレンジは別に求めてないよ" みたいな……(笑)。結構、言われるので(笑)。徳間ジャパン時代のディレクターさんから、"もっと CDを聴け!" ってすごく言われました。だから、今でもそう思ってて、いつも、新鮮な気持ちで舞台に立つためにも、自分のCDをよく聴いています。」

7 原点は民謡と鳥羽一郎 〜「"なんてかっこいいんだ!" と思って…」〜
姫路市出身の丘みどりは、5歳のころから、祖母に連れられて、宍粟市(しそうし)にあった民謡教室に通っていた。丘みどりの歌のうまさの原点は民謡だ。
「楽しかったですね。わりと小さい頃から歌が大好きだったので、そうやって教えてもらって、おばあちゃんに "みっちゃん、上手〜" って褒めてもらえるのがうれしかったですし、民謡を歌うのも楽しかったですね。」
小学5年生の時、「兵庫県日本民謡祭名人戦」に出場し、民謡教室の先生が「声に合うんじゃないか?」と選んでくれた『シャンシャン馬道中唄』という宮崎県の民謡を歌った。
「私、そういうコンクールとか出ようぐらいまで本気で習おうと思ってなかったんですけど、習ってた民謡の先生が "一回、試しに出てみたら? これだけ上手に歌えてたらいけんじゃない?" みたいな感じで言ってくれて、"じゃあ、出てみましょうか" ってことになったんです。だから、かる〜い気持ちででたんですけど(笑)。」
ところが、その、かる〜い気持ちで出たコンテストで、いきなり優勝してしまう。
「そうなんです。その時に、"あれっ? これは、もしかしたら……" って、家族全員が思って(笑)、"じゃあ、本格的にやるか”みたいになって……(笑)。」
「私、おばあちゃん子だったんですけど、おばあちゃんが別の所に住んでたんで、それまでは、本当に、おばあちゃんに会いたいがために、一緒に民謡教室に行ってたみたいな感じだったんです。民謡教室が終わった後に、おばあちゃんと買い物行ったり、ご飯食べに行ったり……、そういうのが嬉しくて、おばあちゃんについて行ってただけだったんですけど、なんか、いつの間にか……(笑)。で、その習ってた宍粟市(しそうし)の先生にも、"もう僕じゃ教えられないから、ちゃんとした先生のところに習いに行って……" って言われて、紹介していただいて、姫路の有名な先生のところに習いに行き始めたのが、そのあとです。」
民謡も好きだったが、小さい頃から演歌も好きだった。演歌との出会いは、その祖母に連れられて行った鳥羽一郎のコンサートだった。幼稚園のころだったが、鮮明に記憶しているという。
「めちゃくちゃ覚えています。宍粟市(しそうし)の JA のイベントで、おばあちゃんが、なんかいっぱいジュースを買って、それでもらった歌謡ショーのチケットみたいなやつで……(笑)。2枚あるから一緒に行こうってことになって、一緒に行きました。」
初めて生で聴いた歌手の歌声と、PA スピーカーから聴いたバンドの音に衝撃を受け、その時、自分も歌手になろうと思った。
「"めっちゃ かっこいい!" って思いました。"なんだこれ〜!" みたいな……。やっぱり、それまで、三味線とか尺八とか太鼓とかの生音は聴いたことあったんですけど、そういうバンドの生音を聴いたことがなくて、で、ステージの幕が開いて、バンドの中で鳥羽さんが歌ってらっしゃる姿を見て、"なんてかっこいいんだ!" と思って、"私も鳥羽一郎さんになりたい" って思ったのが、歌手になりたいと思ったきっかけです。」
その幼稚園児だったころの衝撃が、丘みどりを歌手にした。
「そうなんです、そこから、ずっと歌手になりたいって思ってて……、唯一ブレなかったところですね。」

8 一度はアイドルグループに所属 〜「イチから音楽の勉強をしようと思って…」〜
小中高のころは、民謡や演歌歌謡曲とともに、まわりの友達と同じように、J-POP も聴いていた。
「そうですね、普通に……、小学生の頃は「SPEED」さん、中学になったら「浜崎あゆみ」さん、高校生のころは「ELT」(Every Little Thing)さんとか、なんか、そういう感じでしたね。もちろん、演歌も聴いていました。テレビで、毎週、NHK の歌番組とかも見ていましたし、鳥羽一郎さんだったり、坂本冬美さんだったり、石川さゆりさんだったり、島倉千代子さんだったり……、そういう感じです。」
当時、鳥羽一郎以外で、「こういう風になりたい」と思っていた憧れの歌手は、石川さゆりだった。友達とカラオケに行った時にも、J-POP だけでなく、演歌も歌っていた。
「私が、ちっちゃいころからずっと演歌が好きだってことを、周りの友達も知ってたんで、"みっちゃん、なんか歌って!" って言われるから、必ず1曲か2曲は演歌を歌ってました。そうですね……、『兄弟船』とか、あと、中村美律子さんの『河内おとこ節』とか、関西なので、天童よしみさんの歌だったりとか歌ってました……。」
高校生のころは、学校でもとくに目立つような感じではなかったと言う。
「あっ、でも変わってないです、ずっとこんな感じです……(笑)。」
2002年、高校3年生の時に、大手芸能事務所「ホリプロ 大阪」のオーディションを受けた。
「そうです、自分でオーディション雑誌を買って、一番大きく載ってた事務所に応募しました(笑)。事務所に入れば、何でも好きなことできると思ってたので、アイドルの事務所だったんですけど受けて、合格させてもらった時に、事務所の方に "何やりたい?" って言われて、"私、演歌歌手になりたいです" って言ったんです。そしたら、"お〜い、ちょっ ちょっ ちょっ……" ってなって(笑)。"ウチはアイドル事務所やから無理やって" ってなって、"えっ? 事務所入ったらなんでも出来るんじゃないんですか?" って言ったんですけど、"あ〜残念やけど、絶対ウチじゃない〜" って言われて……(笑)。」
それでも、その事務所に所属することになり、関西で活動するアイドルグループ「HOP CLUB」のメンバーになった。
「そのオーディションでグランプリを取ったら、なんか特典があったんですよ、レギュラー番組 2つとか。なので、もう次の日から、"くりぃむしちゅーさんとのロケ行ってください" って言われて、で、もうよくわからないまま、その事務所に入ってしまったみたいな感じです。」
本来やりたいこととは違ったが、テレビやイベント出演などの仕事は楽しかった。ソロ歌手ではなくても、夢に近づいたような気がしたのだろう。
「楽しかったです……。何か刺激的な世界で、知らないことばっかりで、めちゃくちゃ楽しかったですね。」
しかし、1年ほどで、そのグループも事務所をやめてしまい、大阪にある音楽の専門学校に通うようになる。
「楽しかったんですけど、この先、一番やりたいことをやってやっていきたいと考えた時に、やっぱり、演歌歌手になる夢は捨てきれないなーって……、5歳の時に芽生えてから、変わってないし……と思って。で、このまま、たぶん、お仕事をいただいて、アイドルグループでやっていたら演歌歌手になれないんだろうなと思ったんで、やめて、イチから音楽の勉強をしようと思って、それで専門学校に行きました。」
なかなか勇気のいる決断だ。希望とは違うアイドルグループとは言え、大手芸能事務所の所属ではあるし、そのまま続けながら演歌歌手になることも、もしかしたら出来たかもしれない……。だいたい、辞めるのはもったいない気がしてしまうが、それこそが私たち凡人が考えることで、一流の歌手になる人の発想は違う。
専門学校では、1年間のコースを選んだ。通う間にも、自分で歌手への道を模索し続けていた。専門学校だから、卒業して、そのまま歌手になれるわけではないし、芸能事務所に所属できるわけでもない。そんな中、関西で放送されていたテレビのカラオケ番組『平成 歌の祭典』に出演し、中村美律子の『河内おとこ節』を歌っているのを、たまたま見ていた人物からスカウトされた。
「そうなんです。そのテレビをたまたまおウチで見ていらっしゃった、大阪の事務所の社長から、その番組宛に、"あの子は、どっかでデビューしてる子なんですか?" って問い合わせがあって、"あの子は演歌希望の素人の子です" って番組の人が答えたら、"じゃあその子の連絡先を教えてください" ってなって、実家に電話かかってきたんです……。お母さんが、"なんか知らない人から電話かかってきた〜" って言って(笑)。それで、母と一緒にお話を聞きに行ったら、"ウチの事務所に来ませんか?" っていう風に言っていただいたんです。」
そうして、新たに、大阪で別の事務所に所属することになり、レコード会社もバップに決まって、2005年、21歳の時、シングル『おけさ渡り鳥』で、念願の演歌歌手としてデビューすることができた。最初のアイドルグループでは、本名の「岡 美里(おか みさと)」だったが、演歌歌手としてソロデビューするにあたり芸名に変え、演歌歌手「丘みどり」が誕生した。

9 念願の全国キャンペーン 〜「マスクの中がベチャベチャになるくらい、よく泣きました…」〜
デビュー後、10年間の売れない時期を大阪で過ごしたのち、2016年に上京し、所属事務所もレコード会社も一新してリリースした最初のシングル『霧の川』は、6月22日の発売から好調で、7月11日付のオリコン「週間 演歌・歌謡 シングルチャート」で1位となった。
「う〜ん……、"突然、売れた感" はなかったですね……。何か、こう……、キャンペーンをすると、ちょっとずつ、ちょっとずつ人が増えてきてるな〜っていう感じはありました……。それより、"忙しくなった感" はありましたね。もう、どんな場所でもいいので、歌ってキャンペーンをして、"1枚でもCDを売って、みんなが出てるような音楽番組に出れるようになろう" って思ってて、マネージャーにも "休みはいらないから、全部キャンペーンのスケジュール入れて!" ってお願いして、それで、全国、ず〜っと回ってたので。マネージャーと二人で、キャンペーンで、もう全国を3周ぐらいしました(笑)。」
大阪時代に、「もっとキャンペーンをやって歌いたい」と思っていたことが実現したから、忙しくても充実感はあっただろうと思う。
「そうですね〜。まっ、でも……、とは言うものの、やっぱり "たまに休みがあるのかな〜" って思っていたら1年間くらい本気で休みがなくて(笑)、マネージャーに "オニかよ〜!" って思いましたけど……、でも、自分が言ったことなんで……。」
「それこそ、ワンピース1枚を持って、10日間くらい旅に出るわけで、で、毎日、知らないオジサン(マネージャー)と二人っきりで……(笑)。だって、そのころは、まだ知らないじゃないですか……、今こそ知ってますけど、知らない人と毎日ずっと過ごすって……。だから、マスクして新幹線に乗っている時に、マスクの中がベチャベチャになるくらい、よく泣きました……。"なんだ、この生活は……?" とか思いながら(笑)。ホント、泣きました……。」
「もちろん、そんなに経費も使えないですから、そんなにおいしいものを食べたりもしてないし、地方の山の中の、ホントにホテルと呼んでいいのか?って思うくらいのホテルとかもあって……、カーテンとかバリバリに破れてたり、壁がカビだらけだったり、なんかシイタケ生えてるようなニオイのところとか(笑)、"こんなホテルある〜?" みたいなところもありましたし……。それで、そういう生活を毎日してる時に、新幹線の中でマスクがベチャベチャになりました(笑)。無表情で、ずっと泣いてました……ハハハ(笑)、"思ってたんとちゃう〜!" って(笑)。
大阪時代、10年近くずっと望んでいたことではあったが。実際は、相当つらかったようだ。
「なんか、こう……、疲れてたんでしょうね……、心が病んでたというか(笑)。やっぱり、来る日も来る日もキャンペーンだったので……。キャンペーンも、もちろん、みなさんが待っていてくれて、"みどりちゃ〜ん" って言ってくれるところばかりじゃ全然ないので、"なんで歌いに来たん?" ぐらいのスナックに行って、"この前、誰々さん来たけど、もっと歌ってくれたで〜" とか、"なに、その衣装? もうちょっと高い衣装なかったん?" とか言われたりしながらでしたから……。」
「で、マネージャーも、スナックとかのキャンペーンを、それまでやったことがなかったんですよ。なので、カラオケの機械の使い方もわからなくて、"キーを 2コ上げて" ってお願いしたら、テンポが上がってたりとか(笑)、"ちゃうねん、ちゃうねん!" て思いながら、『霧の川』をスゴイ速い感じで歌ったりとか(笑)。
上京してから、ずっと丘みどりに付いている、この「鬼のキャンペーン」を組んだマネージャーは、極めて優秀な人だ。それまで10年間売れていなかった丘みどりを、たった1年半で紅白に出場する歌手にまで育てた。しかし、丘みどりを担当する前には、大御所のアーティストしか担当してこなかったため、逆に、スナックを回るようなキャンペーンの経験もなかった。
「たとえば、スナックとかで、お客様と一緒に歌う時に、お客さんが私の肩をもったりするんです。私は、スナックとかのキャンペーンでそういうのはいっぱい経験してるから、"そういう人もいるよな〜"って思ってたんですけど、マネージャーにとっては、初めてのことだったので、すっごく怖い顔して、そのお客さんを睨んでるんですよ(笑)。"そんなことしたら、もう二度と歌いに来ることが出来なくなるから謝ってよ!" とかよく言ってました……(笑)。」
そんな日々の中、『霧の川』が、オリコン「週間 演歌・歌謡 シングルチャート」で初めて1位を取った。
「いや、もう〜めっちゃ!くっちゃ!嬉しかったですね。なんか、こう、勝手に売れたわけじゃなくて、"お願いします!" って言って全国で買ってもらった感じだったので。"自分たちの足で売った" っていう実感がありましたから、やっぱり嬉しかったですね。」
そして、翌年、2017年に発売された移籍第2弾、通算8枚目のシングル『佐渡の夕笛』が大ヒットとなり、その年の NHK 紅白歌合戦にも出場した。
「いや、もう〜 "うれしい" という一言では言い表せないですね……。紅白が決まる前って、なんか予想とかって記事が出るじゃないですか。だから、やっぱり、こう、不安だったりとかもあったし……。そういう記事を見た人が、"なんか出てたね、おめでとう”っていう電話がかってくるんですよ。"いや、あれは、予想だから!" って言ってたんですけど……。でも、これだけ、いろんな知り合いとか親戚とかに、"出れるよね" みたいに言われてて、それで、"もし出られなかったらどうしよう……" とか、"出れたら嬉しいな……" とかいろいろあって……。」
「それと、ファンの皆さんの中には、『霧の川』から『佐渡の夕笛』にかけて、ずっと一緒に全国をまわって CD を買ってくださってた方もいらっしゃったので、そういう方々へのプレッシャーもありましたし……。だから、うれしいのと同時に、ほっとしたというか、チカラが抜けたというか……そんな感じでした。」
一番伝えたかった母親に伝えることは出来なかったが、幼い頃から民謡教室に連れて行ってくれた祖母や、父親も、さぞ嬉しかったことだろう。
「父に電話をしたんですけど、"いや いや いや、絶対ウソやん" って言って、最初、信じてくれないんですよ。"決まったんやって〜っ!" って何度も言って、やっと "えっ!ウソ? ほんまに!"って感じでしたね(笑)。おばあちゃんは、"あ〜よかった〜" って泣いてました。」
昨年末、3年連続出場中の紅白では、通算10枚目のシングル『紙の鶴』を歌ったが、衣装は、亡き母親の振袖を着た。
「そうなんです、お母さんが成人式の時に着た着物を着て歌ったんです。」
その着物には、偶然にも鶴が描かれていた。何か運命的なものも感じてしまうような、いい話だ。
「お母さんが、若い頃、服飾の専門学校に通ってて、卒業制作で作ったものなんです。その着物は、母が自分の成人式で着たきり、ずっと封印されてた着物で……。母の成人式の写真を見た時に、青い着物を着ていて、"これママが作って、あそこにあるんよ”っていう話を聞いた覚えがあったんで、それがあるってことは、なんとなく知ってました……。それで、『紙の鶴』って曲を頂いた時に、"あれっ? ちょっと待って……、ママの着物が鶴だった気がするよね〜" って思って、ウチの父に連絡をして、私が実家に帰った時一緒に探したら、綺麗なまま出てきたので、"もし今年紅白出れたら、その時に着よう……" って思ってたんです。」

10 夢はラスベガス公演 〜「日本の文化を背負って…」〜
人気歌手の場合、毎週、何本もの歌番組の収録があったりして、知らないカバー曲を何曲も覚えなければいけないことも少なくない。ただ覚えて歌えれば良いのではなく、「あ〜 やっぱり丘みどりはさすがだね……」と思われるように、魅力的な歌になっていなければならないから、実際は大変だ。だから、仕事以外では、あまり音楽を聴かない歌手も少なくないが、丘みどりは違う。
「はい、聴きます、聴きます。"あいみょん" とかも、めっちゃ聴きますよ、カラオケでも歌いますし。あいみょんの『裸の心』とか、菅田将暉の『まちがいさがし』とかが、最近、好きなんですよ、歌いたくなるんですよね〜、カラオケ行ったら。仕事が終わってカラオケ行くっていうのもど〜かと思いますけどね……(笑)、スタッフでよく行くんですよ、"カラオケ行こ!”って誘って。好きなんです。」
「ほかには、なに聴いてるかな〜? でも、ホントに、今流行ってる、たとえば『香水』(瑛人)だったりとか……、流行ってる曲は全て聴くようにしています。やっぱり、なんかこう…… "その歌 知らなぁ〜い" っていうのは良くないなと思っていて……。いちおう、演歌歌手っていうジャンルだけど、アーティストとして、やっぱりこういうのが売れてるんだっていうのは知っとこうと思って、流行りの曲はゼンブ聴いてます。」
趣味としてもあるだろうが、半分は職業的な意識、仕事の延長のような感じで聴いているのだろうか?
「延長でもありますけど……、でも、やっぱり、単純に歌が好きなので、音楽が好きで……、洋楽も聴きますし。洋楽は何聴いてるかな〜、ステージの直前に EDM も聴きますし(笑)、テンション上げるために(笑)。」
本当に音楽が好きで、歌うことが大好きなのだということがよく伝わってくる。仕事で歌ったあとで、スタッフを誘ってカラオケに行くということは、何か歌い足りない気持ちがあるのだろうとも思う。それに、ノドが強くないと、出来ないことでもある。
また、自身のリサイタルでは、江利チエミ『酒場にて』、美空ひばりの『日和下駄』や『車屋さん』『リンゴ追分』といったような往年の名曲に加え、南沙織『17才』、石野真子『狼なんか怖くない』、岩崎宏美『ロマンス』、ちあきなおみ『紅とんぼ』、中島みゆき『化粧』など、アイドル歌謡やニューミュージックまで幅広く歌う。
「そうですね……、私だったりとか、演出家の方だったりとかで選曲しています。で、その〜、ポップス……、昔のアイドルの方たちの歌を歌おうってなった時には、父に聞きました。"なに聴きたい?" って……(笑)。『17才』『狼なんか怖くない』『ロマンス』とかは、完全に父の趣味です(笑)。もちろん、知ってはいました。」
「『車屋さん』とかは、テレビ番組とかで歌わせていただいたことがあったので知っていましたけど、『日和下駄』とか知らなかった曲もあります。『こんなベッピン見たことない』は、花柳糸之先生が、"みどりに合ってるから" 言ってくださって、"ステージでやったら面白いから" って言ってくださって。」
普段は、着物を着て歌っているために、なかなかイメージしにくいが、プライベートでは、マリン・スポーツが好きだったりもして、アクティブな感じだ。
「そうですね〜、なんか、やっぱ体をうごかすことがめちゃくちゃ好きなんで、とにかく体を動かしてますね。パーソナルトレーニングジムに行ったり、今は、ちょっとあれですけど、時間があったら、たとえば夏だったらウェイク(ボード)とか、スキューバダイビングも大好きです。」
新型コロナウィルスによるステイホーム期間は、おそらく、信じられないくらいの時間があったと思うが、何をしていたのだろう?
「もう、ひたすら料理作ってましたね。もともと、料理は、めっちゃくちゃ好きだったんですけど、やっぱり忙しくて、なかなか作れてなかったんで……。で、最近、「そば打ち」しようと思って道具を買いました(笑)。」
昨年、2019年の11月には、初の海外公演を、太平洋の島国、パラオ共和国で行った。パラオ共和国と姉妹・友好提携を結んでいる兵庫県出身の若手実力派歌手として、パラオの「文化・音楽親善大使」に就任し、「日本・パラオ外交関係樹立25周年記念事業」のゲストとして招かれたものだ。さらに、パラオは、スキューバ・ダイビングの人気スポットでもあり、丘みどりが「スキューバ・ダイビングのライセンスを持っている演歌歌手」ということも手伝ったようだ。
「パラオで海外公演をやらせていただいた時、ものすごく楽しくて……、言葉の通じない方に受け入れられた喜びっていうのが、すごく大きかったです。」
「オリジナルのほかに、美空ひばりさんの曲とかも歌いました。ひばりさんの歌は、現地の方も知ってて、こういう曲を歌ってくださいっていうのは、何曲かいただいていましたし……。でも、なんか……、演歌のコンサートじゃないみたいな感じでした。美空ひばりさんの歌なんか歌うと "フ〜!" みたいな……(笑)、"そんなノリ方じゃないよ" みたいな……(笑)。あと、私の曲で、掛け声をかけたりするところがあるので、そういうのも、皆さんがしてくださったりとかしたのも嬉しかったですね。」
新型コロナウィルスによる自粛は別にすれば、歌手として、いま幸せだと言う。
「はい。今が一番幸せです。何も不満はないです。」
今後の目標や、将来の夢を聞いてみた。
「あっ、将来の夢はあります。ラスベガス公演をすることです。海外の方に、演歌のかっこよさだったりを伝えたいですね。日本の文化を背負って、一座的な感じでやりたいんです。振り付けの花柳糸之先生もラスベガス大好きで、"あそこに、みどりを立たせてあげたい" ってずっと言ってくださってるので……、おっきな夢としては、それですね……。」
2015年から何度か、実際にラスベガスで「スーパー歌舞伎」(Kabuki Spectacle)が上演されているし、ワシントン D.C. で、毎年、行われている「さくらまつり」(National Cherry Blossom Festival)も人気だし、神野美伽は、ニューヨークで演歌を歌う公演を成功させている。
演歌を含めた様々な日本の音楽や歌舞伎などを組み合わせ、日本のオリジナルなエンターテインメントとしてショーアップすることは出来るような気がする。
丘みどりの歌声が、ラスベガスでどのように響くのか、ぜひ聴いてみたい。
(取材日:2020年9月11日 / 取材・文:西山 寧)
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