



松山千春は1977年1月に「旅立ち」でデビュー。北海道出身のフォーク歌手として頭角を現し、「ザ・ベストテン」がスタートした1978年当時は、深夜ラジオ「オールナイトニッポン」のパーソナリティとして起用されるなど、既に全国区にその名を轟かせ始めていた。8月に発売された「季節の中で」は、グリコアーモンドチョコレートのCMソングとなり(CM出演は三浦友和)、彼にとって最初の大ヒット曲となる。
当時、若い世代から人気を得ていた「ニューミュージック」と呼ばれるジャンルの歌手たちは、テレビ出演を拒む者が少なくなかった。松山千春もその一人だ。限られた時間の中で他の歌手と共に出演して一曲だけ歌うよりは、コンサートで目の前のファンにしっかりと歌を届けたい…という考えで、テレビには一切出なかったのである。
そんな中、「季節の中で」は11月2日、ザ・ベストテンに第5位で初ランクイン。番組のプロデューサーは出演交渉のため、コンサートへ足を運んだ。やっと一緒に食事する機会を得たものの、席について開口一番「出ませんよ」と言うほど松山の意志は固かったという。しかしプロデューサーは粘り強く何度も交渉を続けた。「番組宛に毎週たくさんのハガキが届いている。あなたはこれだけのファンの声に応えるべきではないのか」。
3週目となる11月16日、「季節の中で」は第1位になり、ついに彼は出演を受け入れる。しかしTBSのスタジオには来ず、この日コンサートを終えた旭川市民文化会館からの生中継。まぎれもなく、これがテレビ初出演であった。誰もいない客席を前に、ギターを抱え、一人ステージ上でイスに座った松山。歌う前に自分の気持ちを話したい、という本人の希望で3分のトーク時間が与えられ、なぜベストテンに出演するに至ったかを、彼は熱く、切々と語った。スタジオの久米宏や黒柳徹子と会話するのではなく、一人語りで、まるで目の前のファンに語りかけるかのように。そして「これが最初で最後」と何度も強調した。トークで3分も使うこと自体、異例である。しかし、予定の時間を超えても松山は話をやめずに延々としゃべり続けた。4分、5分…。しかしディレクターは「一度きりの出演、ファンに対する彼の真摯なメッセージを伝えさせよう」と、あえて止める指示を出さなかった。やっと弾き語りで「季節の中で」を歌い始めた時、既に8分が経過していた。
この時、TBSの舞台裏でスタンバイしている歌手がいた。第7位に「絶体絶命」がランクインしていた山口百恵である。収録現場からの移動のため、遅れてスタジオに到着した山口は、順番を入れ替えて松山千春の中継の後に歌う予定だったが、彼のトークが長引き、時間がなくなってしまった。せっかく駆けつけてもらったにもかかわらず歌えないことを告げ、謝るディレクターに対し、彼女は文句を言うことなく「わかりました」と受け入れたという。山口は、さもエンディングにだけギリギリ間に合ったような様子でミラーゲートから現れ、最後の集合写真撮影にのみ参加した。
後年、松山はこの初出演時のことを振り返り「あと何分、というスタッフからの指示が何もなく、このままやってていいんだろうかと思いながらしゃべり続けた」という意味のことを語っている。「季節の中で」はその後も7週連続で1位をキープし、計12週ランクインするヒットとなった。
松山自身が「最初で最後」と宣言しての出演だったため、二度と出ることはないだろうと誰もが思った。実際、その後「窓」「夜明け」「恋」「人生の空から」とランクインした間も、彼は出演していない。しかし3年後の1981年、「長い夜」が大ヒット。5月21日に初ランクインし、6月11日、松山千春は富山市公会堂から中継で出演する。ファンへのメッセージのみを話し、生では歌わなかったものの、その日同会場で行ったコンサートで収録した「長い夜」の歌唱部分がVTRで流された。さらに7月2日、「長い夜」は第1位に上り詰め、破竹の勢いでヒットしていた寺尾聰「ルビーの指環」の連続1位を12週でストップさせる。この日、全国コンサートツアーを終え故郷の北海道に帰っていた松山は電話出演。長かった髪を切った理由を尋ねるファンからのハガキに対し「髪が薄くなってきたので…」と自虐気味に答えていた。その上で、4日前(6月28日)に東京・日比谷野外大音楽堂で行ったツアー最終公演で「長い夜」を歌った時の映像が流れたのである。
ザ・ベストテンに出演したのはこの3回のみ。数少ないテレビ出演の機会だったことと、VTRとはいえ歌う姿がテレビで見られるのは貴重であったこと、そして8分のトークというインパクトの強さゆえ、番組の名場面として視聴者の記憶に焼き付いている。