「この歌詞は時代の最先端なのかもしれない…!」

 2024年1月3日に“打首獄門同好会”が結成20周年フルアルバム『ぼちぼちベテラン』をリリース! CD作品としては約2年9ヶ月ぶりのリリースとなる今作には全12曲が収録。2021年以降にリリースした楽曲がリマスター収録され、収録曲の半分以上は未発表の新曲となっております。
 
 さて、今日のうたコラムではそんな“打首獄門同好会”による歌詞エッセイを3週連続でお届け! 今回が最終回! 第1弾では彼らの歌詞の特徴について、第2弾では歌詞の「普通」のルーツについて綴っていただきました。そしてラストは、打首獄門同好会の歌詞の方向性に通ずる「大勢の同意」という観点に注目。ぜひ最後までお楽しみください…!



はいどうも、打首獄門同好会のギターヴォーカル大澤敦史です。この度3回に渡り「歌詞」というテーマで語る機会をいただいておりまして、今回でそれも最終回でございます。大変長々した文章を2つも読んでここまで辿り着いてくださった皆様、誠にありがとうございます。それでは今回もほどほどに長々と、話を続けてまいりましょうかね。
 
さて前回は、そもそもの歌詞の「普通」はどこから? とルーツを辿ろうとしたら、過去の音楽に遡るほど歌詞そのものの要素が少なくなってったぞって話をしましたね。結局、現代でここまで歌唱なり歌詞が前面に出てこられるのは、よく考えてみたら声をマイクで拾って増幅できるようになった科学技術の恩恵ありき、それより前は楽器のみの音楽が主流だったっぽいぞと。
 
どうも歌詞ってのをここまで重視する傾向って、すなわち我々の認識している歌詞の「普通」のルーツが形成されてきた時期って、せいぜいここ100年内くらいの最近のことなのでは? と、そんな考えを話しました。
 
で、そんな思いのほか短い期間の話だったら、決してまだ終着点でもない、むしろ大きな変化の最中なのでは? と。
 
実際、この100年内においても大いに続いてきたテクノロジーの発展やら何やらは、世に出てくる歌詞の在り方に影響を与え続けたのではないかと思っています。
さあ、そんなわけで最終回は特に持論たっぷりでいきますよ。
 
早速ですが、その持論を語るにあたって、個人的にわりと好んで使っている言い回しがあります。
「大勢の同意」という言葉です。
 
何か行動を起こすにあたって、色々ありますよね。大勢の同意が必要な状況、そんなに大勢の同意を得なくても良い状況、あるいはもはや独断で動ける状況。まあ行動の内容やら巻き込む人の規模やらで、具体的な状況ってのは多岐に渡りますが。なんにせよ誰かの賛同を得られないと行動に制約が出るケースは多々あります。
 
そして音楽という作品を世に出す過程のおいても、その必要とする「同意」の種類や数は様々なケースがあり、世に広まる音楽の方向性やら「歌詞」への影響も大きい。自分はそう思うのです。
 
今回は、誠に勝手ながらこの「大勢の同意」という観点に沿って話を展開してまいりますよ。
 
まあ何が言いたいか、漠然としていてよくわかりませんね。順々に例を挙げて話していきましょう。
 
まずたとえば、前回も触れたクラシックと呼ばれる音楽の時代。マイクが無かった時代に歌は前面に出づらかったろうと話はしましたが。大勢に伝え広まるのは難しかろうという話はしましたが。とはいえ歌唱の文化が無かったって話ではないですね。
 
それはもう色々あったと思います。オペラのような音楽以外との複合的な文化もあれば、民謡や童謡のように口伝で広まる音楽も、民族音楽のように特定の条件下で根付くものも。が、やっぱり比較的強かったのは「合唱」だったんじゃないでしょうかね。結局、楽器であれ声であれ、より多くの人に伝えたいのなら数の力で音量を出す、というのは当時のシーンで現実的な考え方だったんじゃないかと思います。
 
そして、この「合唱」が「大勢の同意」を必要とするわかりやすい例です。
たとえば、自分がとある合唱団に所属していたとします。方向性として、歌う歌は団員達で自由に決めて良い団体だったとします。お、じゃあ自分の好きな歌を推薦してみるかな…あるいはそう、自分の作った歌を提案してみるかな…そんなことを考えたとしましょう。
 
でも言わずもがな、そんな考えが実現できるとは限りませんよね。そりゃ皆で歌うものですから、皆の同意が必要です。そうだなあ…発言力が同等な関係性だったとしても、過半数くらいは賛成なり許容の票が欲しいんじゃないでしょうか。
 
となると、あんまり奇抜だったり偏ったテーマだとそんなに多くの賛同が得られる気がしません。個人的な思惑が強めのものもどうだろう。と、結局「みんな納得」を求め始めたら、テーマは無難なところに落ち着きがちになるのが世の常です。みんなの意識の最大公約数的な。まあなんでしょう、適度に文学的だったり道徳的だったり、そういう物の方が通りやすいんじゃないですかね。あるいは集いの方向性によっては、国家や宗教といったテーマが賛同が集まりやすいかもしれない。
 
とまあ、合唱という形式は、それなりに「大勢の同意」が必要になりがちな物、として例に挙げられると思います。
 
じゃあ次に、時代めちゃくちゃすっ飛ばして、いよいよマイクなりレコードなりが普及してきたぞ!としましょう。
 
自分ひとりの声を大勢に届けられる技術がある時代。これもう歌の内容も自由にできるんじゃね? と思うかもしれない。ようし、自分の思う最高の歌を世に出して、世界を変えてやろう! と、そんな野心を抱くかもしれない。
 
ただまあ、やっぱりそう簡単には行くものでもないんですよね世の中。まあそもそも、作品を作るまでは良いとしてもですよ。それを「世に出して」って部分のハードルの高さ。これ昔と今じゃ比べ物にならないんですよね…。
 
なんでもそうですが、新しい技術が発明された!世に普及し始めた!くらいの頃って、大概まだべらぼうに高価なわけですので。そりゃ世に出すってひとことで言っても、しばらくはレコードひとつだって会社それぞれ巨大プロジェクトだったことでしょう。
 
で、社運をかけたプロジェクトみたいな規模の話にでもなっちゃった日には、やっぱり個人の思惑なんてそうそう通らないのが世の中です。プロジェクトに関わる「みんな」の納得を得られないといけない。と、ビジネス要素がわかりやすく絡めば絡んだで、やっぱり形は違えど「大勢の同意」は必要になったと思うんですよね。
 
そりゃ自分がプロジェクトリーダーだったとしたら作詞・作曲・編曲、それぞれエキスパートを集めて総力戦したくもなりますもの、わかります。そしてなるべく「無難に良い物」を求めたくなりますもの、わかります。幾分やっぱり「適度に文学的だったり道徳的だったり」という傾向も出てきそうです。
 
そうしてビジネスとして携わる人まで含めて「大勢の同意」が得られる形になってこそ、やっと世に知れ渡る勝負の土俵に立てる、しばらくそんな感じだったんじゃないでしょうか。
 
ただ、だんだん時代も変わってくるものです。発明品も普及が広まり技術が発展すれば価格帯もだんだんと下がっていき、市場も大きくなれば供給側も仕掛けるハードルはどんどん下がってくるものですね。そしてビジネス的な観点で「他と違うものを」「インパクトのあるものを」という発想が手伝えば、無難路線からだんだんと冒険や挑戦が許されるようにもなってくるもんです。まだ「大勢の同意」はそれなりに必要ではあるものの、徐々にだんだんとその「大勢」の勢力は減少していったんじゃないか、と思います。
 
となるとまあ、いつまでも文学的だ道徳的だという話にもとどまらず。大人の恋の話がだんだん火遊びめいてきたと思えば、一方で若者が盗んだバイクで走り出すのも時間の問題。すっごく個人的な一目惚れエピソードも世に出しやすくなるし、イタズラ半分の仕掛けだってできる可能性は増えてきます。
 
そんなふうに、少数で意志決定できるようになるほど、作風の振れ幅も多様に多様にと変わってきたんじゃないでしょうか。
 
つまり「大勢の同意」この同意を必要とする人数が減れば減るほど、作り手の自由度は大きくなってくる。そして歌詞もだんだんとパーソナルな内容が増えてくる。そういう関係性が時代と共に、世に広まる歌詞の方向性をも変えてきたのでは、というのが自分の考えです。
 
そして、個人的にここ最近での最大ターニングポイントと考えているのが2000年頃です。いよいよ最近の話になってきましたね。
 
ひとつはレコーディング環境の変化です。すでにそれ以前から記録媒体がアナログからデジタルへと移行は進んでいたものの、そうは言っても専用機の価格帯が手の届く範囲になる、というレベルの話でした。しかしこの頃に「パソコンに直接録音する」ことが本格的に現実味を帯びてきます。
 
当時、それまで億単位の投資が必要だったスタジオ設備と同等の処理を、予算的に2桁下がった作業関係で実現できるようになったと言われました(これ億単位の方を投資してた人達にとっては悪夢みたいな話ですね)。当然これ以降もパソコンのスペックは上がり続け、関連ソフトや周辺機器は高機能化と低価格化を続けています。もはや家にパソコンひとつと数万円の予算があれば音楽制作環境がそこそこ整うレベルに至ってるんだから、まあ恐ろしい話です。
 
そしてもうひとつの出来事はインターネット高速回線の普及です。その当初は実質文字だけのコミュニケーションツールだったものが、数年で音声ファイルのやり取りが当たり前となり、さらに数年で動画までも当たり前に扱えるようになりました。もはや自身の持つ音であろうと映像であろうと、何の苦もなく数分の作業で世界へ向けて発信することができます(世界がそれを受け取ってくれるかは別として、ですが)。
 
以前は大勢に作品を聴いてもらうためには、レコーディングした音源が全国流通して各販売店に置いてもらえるまでの立場になるか、テレビかラジオに取り上げてもらうか、あるいはライブなりコンサートでそれなりの舞台に立てるようになるか…など選択肢は知れていたし、その数少ない枠を誰が得られるかの壮絶な競争が付きものだったわけです。さらにその対象が海外ともなれば、実現できるのはひと握りもひと握り。だったのが、20年たらずで「世界で見られるチャンス」を誰もが一応は持てるようになったわけで。時代ってこうもあっさり変わるのかと、まあ恐ろしい話です。
 
つまり、ひと昔であれば多くの人の賛同、あるいは大きな権力なり金でもなければ実現できなかった「好きに音楽を形にして世に出す」ことが、もう比較にならないほどにハードルが下がったと。なんなら全然個人で手軽にだってできるようになった、と。これが今、我々の生きている時代。
 
「大勢の同意」はいよいよ、人数が減りに減ってなんなら誰の同意も必要ないところまで、作品は「個の判断」ですらも世に羽ばたくことが可能になりました。
 
そして先ほど述べました。歌詞というものは、同意を得なければいけない人数が減るほどにパーソナルな傾向が強くなっていくのだと。
 
じゃあ、誰の同意も必要なくなったら。そこに行き着いたら、いったいどんな音楽の方向性が、自由に世に出始めるのか。人の目に耳に触れ、世の中の「普通」の感覚を変えていくのか。
 
と、ここで! ようやく言いたい結末に辿り着きました。
つまりですよ。今の時代は、歌詞が極めてパーソナルな内容に寄って然るべきなのです。
もう何が言いたいか、おわかりでしょうか。
 
そうなんですよ。歌詞の内容が!
お米が美味しい、とか。
寒いから布団の中から出たくない、とか。
そういう、言わば日々の日記のような。パーソナルな内容になるのは、必然。そう、必然なのです!
 
すなわち、打首獄門同好会の歌詞の方向性は!時代の流れからして、ごく自然な傾向のものなのです!
いや、もはや…時代の申し子と言っても、過言ではないかもしれないし、そうでもないかもしれない!
そうなのです。打首獄門同好会の歌詞はですね、声を大にして言いましょう。全然おかしくはないのです!これは…新しい…「普通の歌詞」になり得るのですよ!
おわかりいただけましたでしょうか!
 
ああ、よかった。長々とした文章も、無事に結論に辿り着きました。よかった。ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。
さて、そんなわけで今後、打首獄門同好会の歌詞に何を思っても「この歌詞は時代の最先端なのかもしれない…!」と、そんな生暖かい気持ちで見守っていただければ幸いです。
 
しかし我ながらすごいな。これだけ長々とそれっぽく語っておいて、急にものすごく軽い結論に落ち着いたな。
いやホント、そういう気軽~な歌詞が出てくるのって必然だと思いますよ、実際。

打首獄門同好会・大澤敦史>



◆結成20周年フルアルバム『ぼちぼちベテラン』
2024年1月3日発売
 
<収録曲>
01.20!+39!=59!
02.フワフワプカプカ
03.少年よ、君に伝えたい事がある
04.カンガルーはどこに行ったのか
05.死亡フラグを立てないで
06.なぜ今日天気が悪い
07.クッチャネ
08.部長ぷっちょどう?
09.シュフノミチ
10.もののわすれ
11.地味な生活 -SAMBA MAX EDITION-
12.KOMEKOMEN