このところユーミンの最新作『Wormhole / Yumi AraI』をよく聴いているのだが、“初めてなのに懐かしい”という、まさにそんな感覚が降り注ぐ内容である。この表現は月並みかもしれないが、これこそがポップ・ミュージックの最適解のひとつとも言えるだろう。
感動すべきは、本作が彼女にとって40枚目のオリジナル・アルバムだという事実だ。アルバムを作るというのは(自作自演が基本なら特に)大事業なはずで、40枚というのは偉業と呼べる数字だ。しかも彼女の作品集には、時代を牽引するコンセプトが常に存在し続けている。
なぜそれが可能なのか。たゆまぬ好奇心を持ち続けているからこそだ。そしてその姿勢のたまものとして、常に"創造の神様"とお友達なのがユーミンという人なのだ。
その典型ともいえるのが最新作『Wormhole / Yumi AraI』である。でも、“Yumi AraI”とクレジットされているので「おや?」っと思った人も多かった。レコード会社のプレス・リリースには、こう記されている。
「もし荒井由実が肉体を離れ、別の次元で生きていたら? という想像」から始まったのが本作なのである。さらに、「“多次元の世界”があるとするなら、そこに存在する荒井由実はどんな音楽を作っているのか?」という、この問いかけがつまりはコンセプトとなり、制作されたのだった。
アルバム・タイトルのWormhole(ワームホール)だが、「異なる時空や多次元をつなぐトンネル」のことを指す。SF作家ピーター・ワッツの作品に登場することでも知られるが、今回のアルバムで特徴的なのは、トンネルを利用し、繋がりあった場所で出会うのが、別の時代の別の場所、別の人格ではなく、“自分自身”、そう、“Yumi AraI”である点だ。
ここからが、まさにたゆまぬ好奇心を持ち続けるユーミンならではなのだが、今回、メインの“レコーディング機材”として使われたもののひとつがAIだった。なんでも“Chrono Recording System(クロノレコーディングシステム)”という独自の制作手法が導入されたらしい。
このシステムに、荒井由実時代から現在に至るボーカルトラックをディープ・ラーニングさせ、新たな“Yumi AraI”を「再構築・生成するという前例のない試み」となったわけである(ここまでの「」内は、すべてプレス・リリースからの引用)。だからこそ、“初めてなのに懐かしい”という、そんな作品が誕生したのだ。でもこの“懐かしさ”は、かつてどこかに存在したものの焼き直しとはまた違ったものなのだ。
こんな紹介をすると、AI任せで音楽制作したと勘違いする人もいるだろう。違う。作ったのは、紛れもなく2025年のユーミンだ。ただ、デビュー以来の彼女の声質や歌い回し、旋律の上下動の傾向、歌唱のビブラートとかタメとかの細部も含め、ありとあらゆるものを駆使し、合成される、“デジタル・ボーカル・モデル”のようなものを参照できる環境が整ったのが今回であり、そのうえでの取捨選択がなされたと想像するのだ。
というわけで、ここまではプレス・リリースを参考にしながら僕の推測も交えアルバム・コンセプトのことを書いてきたが、ここからはいつもの本コラムらしく、歌詞のことが中心となる。
感動すべきは、本作が彼女にとって40枚目のオリジナル・アルバムだという事実だ。アルバムを作るというのは(自作自演が基本なら特に)大事業なはずで、40枚というのは偉業と呼べる数字だ。しかも彼女の作品集には、時代を牽引するコンセプトが常に存在し続けている。
なぜそれが可能なのか。たゆまぬ好奇心を持ち続けているからこそだ。そしてその姿勢のたまものとして、常に"創造の神様"とお友達なのがユーミンという人なのだ。
その典型ともいえるのが最新作『Wormhole / Yumi AraI』である。でも、“Yumi AraI”とクレジットされているので「おや?」っと思った人も多かった。レコード会社のプレス・リリースには、こう記されている。
「もし荒井由実が肉体を離れ、別の次元で生きていたら? という想像」から始まったのが本作なのである。さらに、「“多次元の世界”があるとするなら、そこに存在する荒井由実はどんな音楽を作っているのか?」という、この問いかけがつまりはコンセプトとなり、制作されたのだった。
アルバム・タイトルのWormhole(ワームホール)だが、「異なる時空や多次元をつなぐトンネル」のことを指す。SF作家ピーター・ワッツの作品に登場することでも知られるが、今回のアルバムで特徴的なのは、トンネルを利用し、繋がりあった場所で出会うのが、別の時代の別の場所、別の人格ではなく、“自分自身”、そう、“Yumi AraI”である点だ。
ここからが、まさにたゆまぬ好奇心を持ち続けるユーミンならではなのだが、今回、メインの“レコーディング機材”として使われたもののひとつがAIだった。なんでも“Chrono Recording System(クロノレコーディングシステム)”という独自の制作手法が導入されたらしい。
このシステムに、荒井由実時代から現在に至るボーカルトラックをディープ・ラーニングさせ、新たな“Yumi AraI”を「再構築・生成するという前例のない試み」となったわけである(ここまでの「」内は、すべてプレス・リリースからの引用)。だからこそ、“初めてなのに懐かしい”という、そんな作品が誕生したのだ。でもこの“懐かしさ”は、かつてどこかに存在したものの焼き直しとはまた違ったものなのだ。
こんな紹介をすると、AI任せで音楽制作したと勘違いする人もいるだろう。違う。作ったのは、紛れもなく2025年のユーミンだ。ただ、デビュー以来の彼女の声質や歌い回し、旋律の上下動の傾向、歌唱のビブラートとかタメとかの細部も含め、ありとあらゆるものを駆使し、合成される、“デジタル・ボーカル・モデル”のようなものを参照できる環境が整ったのが今回であり、そのうえでの取捨選択がなされたと想像するのだ。
というわけで、ここまではプレス・リリースを参考にしながら僕の推測も交えアルバム・コンセプトのことを書いてきたが、ここからはいつもの本コラムらしく、歌詞のことが中心となる。
2025年11月18日発売
まずはドラマ主題歌「天までとどけ」から
冒頭の歌詞は[みじかい秋のはじめ]である。あくまで[はじめ]なのに、なぜそれが[みじかい]と判るのか。これはつまり、昨今の気候変動を踏まえた描写なのか…。でも、そのあと繰り返し出てくるのは[今日だけの]であって、となると"一瞬のなかの永遠"という言葉も浮かんでくる。そんな時間感覚は、ユーミンならではと思う。ならでは、といえば、[Day by day]のすぐあとに[遠くまで]という反語に近い言葉が並び違和感ないのも印象に残る。
そしてこの[天までとどけ]という楽曲タイトルが、願いよとどけ、みたいな従来からの使われ方でありつつも、ここまでこの道を信じ、歩んできた魂たちが、帰還する場所を示しているようにも聞こえる。
もっとも、それはこの文章を書いている僕自身が人生のベテランと呼ばれる年齢のとば口に差し掛かりつつあるからかもしれない。冒頭に[秋]と出てくるのだから[秋]は[秋](から冬)を描いているということで間違いないのだろうが、なんか早春に聞いてもハマりそうな作品という気がする。きっとその頃にまた、僕はこの作品を聴いていることだろう。
2025年11月18日発売
凡人ならハマらない言葉もユーミンなら…。
さて、次は「岩礁のきらめき」である。この歌に僕はヤラれっぱなしだ。岩礁(がんしょう)なんてゴツい言葉、なかなか歌詞で使うのは難しそうなのだけど、"この言葉以外は有り得ないほどハマっている"あたり、さすがユーミンだ。ボーカル・トラックの聞こえ方についても書いておく。メイン・ボーカルは紛れもなく今現在のユーミンという印象が強い。でもコーラスは、"歴代ユーミンズ"とでも呼びたい深みとともに響いている。このあたりはAIの
"Chrono Recording System"のなせる技かもしれない。細かいスタジオ作業ことは判らないのだが。
歌詞のなかでひときわ耳に残るのは[memories]とか[遠い]といったシンプルな言葉(敢えて言うなら使い古された言葉)だった。しかしそれらがぴかぴかに磨き直され、歌のなかで巨大な情報のストレージを獲得しているのが本作だ。聴くヒトそれぞれの様々な記憶を掘り起こしていくから"懐かしい"のであり、でもこれは紛れもなく今現在の音楽体験だから"新しい"。
2025年11月18日発売
この場合、ワームホールのその先で出会ったのは…。
最後にもう一曲。「小鳥曜日」を。この作品はアルバムのなかでもちょっと肌感の違う聴き心地であり、それは小鳥の囀りを模したと思われる[ピウ ピウ ピッピウ]というオノマトペが印象に残るからかもしれない。そもそもはユーミンが長年愛する画家のアンリ・マティスの第二次世界大戦中のニース時代を想い書き下ろしたものだ。なので制作意図は明確だが、こうして「Wormhole / Yumi AraI」の一曲として聴くと、彼女がワームホールをくぐり、ここではいったい、どこと繋がり、何と出会ったかを考える楽しみもある。そしてこの楽曲のメロディのけれんのない素直さは、まだアーティスト・荒井由実が誕生する以前の幼き彼女を連想させたりもするのだった。もちろんそれも、"Yumi AraI"であることには間違いないのだが。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
近況報告 小貫 信昭
(おぬきのぶあき)
かなり前に、俳優の「ティモシー・シャラメ」を「ティモシー・シャメラ」と覚えてしまい、そうなると、なかなか正せず時間が経過した。でも少し前のディランの映画の頃、これはマズいと名前を正すワザを開発。それは、いったい「ティモシー・ザラメ」と諳じて、そのあと「ザ」を「シャ」へ頭の中で変換することであり、無事に今では、「シャラメ」と言えるようになったのである。
かなり前に、俳優の「ティモシー・シャラメ」を「ティモシー・シャメラ」と覚えてしまい、そうなると、なかなか正せず時間が経過した。でも少し前のディランの映画の頃、これはマズいと名前を正すワザを開発。それは、いったい「ティモシー・ザラメ」と諳じて、そのあと「ザ」を「シャ」へ頭の中で変換することであり、無事に今では、「シャラメ」と言えるようになったのである。

