第15回 槇原敬之「世界に一つだけの花」
photo_01です。 2004年8月11日発売
 デビューした頃の槇原敬之は、都会で暮す大学生が主人公の作品が多かった。ライフ・スタイルや恋愛のことを歌っていた。しかしある時期から、彼はより「生きること」にフォーカスをあてた作品を多く作るようなった。前者が「ラヴ・ソング」なら後者は「ライフ・ソング」…。「世界に一つだけの花」も、そうした流れのなかで書かれたものだ。実はこの歌が誕生するまでには、こんな興味深いエピソードがあるのである。

ある朝、誰かから“授かるよう”ように生まれた

彼は当初、別の提供曲「Wow」を書き下ろし、準備していた。しかし予定が変わり、急遽、別の楽曲を用意しないといけなくなるのだった(こういうことは、音楽業界ではさほど珍しくない)。
しかし本当に時間がない。まったくない。そんな中、なんとたった「4日間でこの曲を作った」そうなのだ。これほど多くの人達に愛される歌が、こんな短時間に生まれたというのは驚異である。でも、とはいえ“さぁ書かなきゃ”という切迫感から生まれたわけでもないらしい。ここからは、天才ソング・ライターならでは境地へ踏む込むことになる。
以前、本人から聞いた話なのだが、ある朝、まさに誰かから“授かるよう”ように生まれたのがこの作品なのだそうだ。 つまりこれまでの経験から「こんな構成はどうか?」とか、「歌の主人公はこんな境遇で…」とか、あれこれテクニックを駆使したわけではないのだ。ふと情景が浮かんできて、それをそのまま書き写す行為だったのだという。よくソング・ライター達は“曲が降りてきた”なんて言い方をするけど、この曲がまさにそうだったのだろう。「なのでこの生誕の地は部屋。自宅のいつもの部屋だったんです」。
この説明に、嘘偽りのないものだろう。ただ、どんな物事でも“よくよく思い返してみれば…”みたいなことはある。それを僕が知ってる範囲で書いていきたい。ここからは当時の槇原敬之の意識の底へと旅を試みてみよう。

 まず、この歌の舞台として重要な役割を果たす“花屋の店先”だが、確か彼には馴染みの花屋さんがあって、そこは珍しい種類の花も取り揃えていることで知られている。この店が、無意識のうちに歌の舞台として登場した可能性はある。ただ、これは歌にテーマではなく、あくまで背景となる景色の一部分だ。
歌で何を伝えるかに関しては、歌うんぬん以前のこととして、「その人がどんな想いを持ち合わせているのか」が重要だ。なので、常にソング・ライティングと密接なわけではない。常日頃から考えてたこと、その人が持ち続けている信条などが、あるタイミングで歌という形になる。この歌なら、歌詞の“それなのに僕ら人間は”以下が、槇原敬之の想いの部分だとするのが妥当なはずなのだ。
どうして人間というのは他人のことばかり気になって、自分の中にある個性に自信を持てないのだろう…。それを伝えるための例えとして、“花屋の店先”の花たちが思い浮かんだのだろう。これは充分にあり得ることだ。

 次に、あまりにも有名になったこのフレーズ。歌詞の最後に出てくる“No.1”と“Only one”だ。この“No.1にならなくてもいい”という歌詞は、様々な議論を呼んだことでも知られている。歌そのものからは随分飛躍して、もう、いろんな意見が巻き起こった。“Only one”だなんて曖昧なことはヤメよう。人間、何かを始めたのなら、どうせなら努力してNo.1を目指すべき…。真面目にそう力説する人も現われた。
でもこのフレーズは、楽曲提供したのがスマップというグループだったから思い浮かんだのだと僕は解釈している。スマップというのは、そもそも「誰が一番か?」を競い合っているグループではない。全員が個性豊かでそれぞれ別の才能を有している。彼らは“Only one”の集団なのだ。

僕が助けられたのは“名前も知らない小さな花”だった

 議論はこれだけでは終わらない。矛先は花屋さんにも向けられる。花屋の店先の花というのは、特別に鑑賞用に育てられたものばかりだ。道ばたに咲いているぺんぺん草とは違う。どれも選ばれし“Only one”なのだ。この件に関して槇原はこう言う。「たしかにファンの人達の間で議論になったことがあった。“あれはもともとキレイに咲くように育てられた選ばれたものなんだ”って…」。
そう攻め込まれた槇原はどう切り返したのか?「でも、2番を聴いてもらえば分かる。僕が助けられたのは“名前も知らない小さな花”だったって、ちゃんと書いてある」。議論になった議論になったと書くと、この作品が「世の中お騒がせソング」みたいに受け取られちゃうかもしれないが、議論になるくらいこの歌の歌詞は多くの人々の胸に深く刻まれたいうことなのだ。

 スマップで大ヒットしただけに留まらず、合唱曲としても、吹奏楽曲としても大勢の人達に親しまれ続けているのがこの歌だ。やがて槇原自身も自らのコンサートで歌うようになった。ひとつ大変なことがあったとしたら、これだけの楽曲を書いたのはいいが、宿命として、これを乗り越えていかなければならないことだろう。しかし、彼の歌作りのペースもクオリティも決して落ちることなく今日へと至っている。
 そういえば1年ほど前だったか、『Dawn Over the Clover Field』という最新作について話を聞いたとき、槇原はこんなことを言っていた。「最近は曲と一緒にアレンジのアイデアも出てくるようになってる。こういうことはデビューしたとき以来かも…」。これからも彼は、必ずいい歌を書き続けるのだろう。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

1957年東京は目黒、柿ノ木坂に生まれる。音楽評論家。
1980年、『ミュージック・マガジン』を皮切りに音楽について文章を書き始め、音楽評論
家として30年のキャリアを持つ。アーティスト関連書籍に小田和正、槇原敬之、
Mr.Childrenなどのものがあり、また、J-POP歌詞を分析した「歌のなかの言葉の魔法」、
自らピアノに挑戦した『45歳、ピアノ・レッスン!-実践レポート僕の「ワルツ・フォー
・デビイ」が弾けるまで』を発表。