第124回 Vaundy
 最近、曲が発表されるたびに感心しちゃうのがVaundy(バウンディ)である。Vaundyという言葉は、僕にとってアーティスト名を越えた存在だ。名曲であることを保証する、記号のようなものなのだ。

ところで、いい曲を書くヒトには二種類あると思っている。まず、パッと聴いてそのヒトだと分かる、独自の個性(節回し)を持っている作家だ。いっぽう、曲ごとに様々なスタイルを書き分ける多才な人物もいる。今回の主役は後者である。

昭和歌謡的な哀愁も魅力の「踊り子」から、かつて“渋谷系”と言われたような洒落たコード感の「東京フラッシュ」。ヒップホップ~クラブ系の音へ大胆に舵を切る「不可幸力」があり、さらに「裸の勇者」なら、メッセージ・ロックとして一級品。また、シンガー・ソング・ライターの“弾き語り”の美学に満ちた「僕は今日も」も完成度が高く、その作風は、実に幅広い。

で、いちいちこれが、それぞれのジャンルの“本格的な味わい”にまで届いちゃっているのが驚異的だ。けして付け焼き刃っぽいものではないのだ。

なぜそれが可能なのだろう? まず言えるのは、音楽を構造の部分からちゃんと理解した上で作っているからだ。

さらに、シンガーとしての技量も大きい。彼の歌は、プロのレベルでも上手な部類に入る。低いとこから高いとこまで、繋がりが良く、厚みのある声で歌える。

シンガー・ソング・ライターという人種は、いくら曲が書けても、自分で歌いこなせなきゃ意味がない。逆に言うと、Vaundyは“歌える”から“幅広い作風”をモノにできたという言い方も可能だ。

歌詞はどうか。この部分も多才だった。そして今回、まず最初に書いてみたいのは、J-POPの模範解答のようなこの作品である。

photo_01です。 2022年3月7日配信
タイトルからして“名曲”な「恋風邪にのせて」

 “恋風邪”という言葉からして味わいがある。世の中には“恋とは風邪をひくようなもの”みたいな言い方があるが、このタイトルはそこから来ていると思われる。恋愛感情の淡さと濃さを、微妙なさじ加減で捉えた作品といえる。歌詞を細かく見ていこう。

[互いに互いを合図]して、[目をそらし]気づいた二人、という表現がある。この場合の“そらし”は、互いに距離を設け、そこで分かったこと、くらいの解釈が適切だろう。

歌は進み、今度は[目を凝らし]気づくことになる。今度はお互いが向き合って、そのうえで相手から感じられたこと、だろう。“そらし”と“凝らし”は単なる韻を越え、恋愛というものの濃淡、心の機微を表現しているのだった。

さらにこの歌には、こんな工夫もある。主語は[僕たち]となっているのに、語尾は女性の言葉づかいを彷彿させる[~の]が多い。それにより、男子の感情も女子の感情も同時に描いているように届いていく。

歌詞のなかに、一か所だけカギ括弧でくくられたフレーズが出てくる。[「心枯れるまで、共に笑っていよう」]だ。回顧的な表現も多いが、ここはハッキリと未来を指す。とても印象的に響き、歌全体の印象を、ハッピーエンドに近づけている。

photo_01です。 2020年5月11日配信
二重構造の歌詞、「怪獣の花唄」

 よく話題になる作品だ。歌詞のなかに[君の歌][怪獣の歌]と出てくるのに、タイトルは「怪獣の花唄」であり、そんな二重構造が話題となってきた。「怪獣の歌」と「怪獣の花唄」には、どんな関係があるのだろう。とても気になったので考えてみた。

まず、歌に登場する「怪獣の歌」だが、かつて友達がギター片手に歌ってて、自分の心に残っている…、そんな存在のものだ。解釈は様々に可能だ。実際にこういうタイトルの歌が存在したとも受け取れるし、なにやら怪獣が暴れるかのような解放感へ誘う歌のことを、正式タイトルとは別に、そう書き記しているとも受け取れる。

それを受け、「怪獣の花唄」はどうだろう。“歌”を“唄”に換え、さらに“花唄”となっている。この楽曲タイトルは、「怪獣の歌」より外側にあって、全体を包み込む感覚だ。

改めて歌詞を眺めてみる。[まだ消えない][口ずさんでしまうよ]とあるのは、「怪獣の歌」のことだ。そのすぐあとの[だから僕が歌うよ]は、今度は「怪獣の花唄」のことではなかろうか。だとすると、ここはこの歌の重要な部分だ。

このあたりから読み取れるのは、主人公が「怪獣の歌」の意思を引き継ぎ、今度は「怪獣の花唄」を歌っていくという決意なのだ。そして我々が、その唄を、フル・コーラスで聴ける日が訪れるかもしれない。

photo_01です。 2020年2月7日配信
最後に“弾き語りの”お手本のような「僕は今日も」

 冒頭に、Vaundyはアーティスト名を越え名曲保証の記号みたいなことを書いた。でも、彼本人ってどんなヒトなんだろうと、気になりもしていた。「僕は今日も」は、それを伝える内容……、ではあるが、彼の独白ではなく、父さん、母さん、彼女が言うところの自分、という描き方になっている。

ユーモアも効いてる。彼女は彼のことを[あなたはカッコいい]のだから[イケメンじゃなくてもいいんだよ]なんてフクザツな褒め(慰め)方をしてる。とっさに彼は、それじゃ[元も子もない]と返すのだが…。

この歌にはアレっと思う部分がある。キーボード主体の淡々としたバラードで、典型的な“弾き語り”なのは明白なのに、敢えて歌詞のなかで、[この気持ちを弾き語るよ]と歌ってることだ。

聴けば判るのに、なぜわざわざ? この歌に込めた感情は、訥々と弾き語ってこそ伝わるということを、他のスタイルなどないことを、知っていたからだろう。事実、この歌にはしっかり確かに伝えたいメッセージが込められている。
[もしも僕らがいなくなって]も、[そこに僕の歌があればそれでいいさ]。この部分である。まさに感涙のフレーズだ。まだ若いVaundyだが、既にこのヒトには、歌の作家として揺るぎない決意が備わっている。

小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
近況報告 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

先日、横浜アリーナで小田和正さんのツアー「こんど、君と」を観てきた。ご本人もバンドもストリングスも素晴らしかった。この方の特徴とも言えるのは、曲が進むにつれて、声がさらに力強く、艶々してくる点であり、今回も同じだった。新しいアルバムからも、たっぷりやってくれた。やはりアーティストというのは、新曲を書くことで存在感(現役感)をみせられるかどうかなのであり、それに適った内容の一夜だった。