小渕が書いた曲を歌うときって、乗っ取られている感じがする。

―― また、<並んで写した 待受写真>は過去を、<待ち受ける未来が 霞もうとも>は未来を表していますよね。同じ“待ち受け”という言葉を使いながら、異なる時間の流れを描いているのがすごいなと思いました。

小渕 そこに気づいていただけて嬉しいです。しかも<春になれば いつも 同じベンチで>写真を撮るというところから、ふたりの歴史を感じてもらえるんじゃないかなと。そして、歌詞を書いていくなかで、ふたりの記憶や、主人公が歩んでいく道を明るくしたいなと思って。そのときに、「未来って“待ち受ける”って言うよな」と気づきました。未来が霞んでいても、そのひとの記憶が照らしてくれる。そういうラストにしたことで、歌詞がひとつになったというか。自分で書いたストーリーに、最後の一筆を入れたような感覚でしたね。

―― そしてサビは、1番の<君はそっと 風になった>というフレーズが、ラストの<風が 僕を連れてく>へとバトンのように繋がっていきます。黒田さんは、その流れをどのように解釈して歌われたのでしょうか。

黒田 解釈とはまた違って。僕は、映像というほどはっきりとはしていないけれど、その時々で浮かんでいるイメージがあるんですよね。「霞日和」のレコーディングのときには、なんとなくネガティブなものが揺れていました。だから、最後は“風に連れられていってしまう”みたいなイメージでしたね。

―― いろんな捉え方ができる楽曲ですね。

小渕 そうですね。僕のなかにはひとつ絵があるけれど、すべてを描きすぎないようにしました。「霞日和」という言葉がないと知ったとき、「じゃあ、僕も見たことがないんだ」と思ったんですよね。ということは、それぞれに思い浮かぶ「霞日和」が正解なわけで、解釈もそれぞれ違う。「私にはこう見えている」という景色がひとりひとりのなかにあることは、音楽をする上で最高の喜びだなと感じます。

あと、書いているときにもうひとつおもしろいことが起きました。僕は<濡れた靴の先に>必ず花びらをつけたかったんですよ。そして、今回はなぜか<つつじの花>が出てきた。つつじの花ってほとんど赤じゃないですか。だから、“自分の歩いていく方向=つま先”に、ろうそくの火みたいな赤い花びらがついていて、それを道しるべに歩いていく、というふうにしようと思ったんです。

でも、頭のなかに浮かんでいたその花びらは、赤くなかったんです。赤にするのがイヤだった。それで最後に<白く揺れる 花びら>へと変えました。自分の行き先を、いつも明るい花びらが教えてくれる。そこに風が吹いて、自分を連れて行ってくれる。どう捉えていただいても大丈夫ですが、僕自身はそんなイメージで書いていましたね。「霞日和」というこの世に存在しない言葉を表現するために、歌詞を書きながら言葉や景色も少しずつ変化していった。その過程も、この曲ならではだったのかもしれません。

黒田 小渕はわりと花の名前を多用するけれど、僕はどれも知らないんですよね。今回もジャケットを見て初めて、「ああ、これがつつじなんだな」って知りました。

小渕 そういえば、つつじにしたもうひとつの理由があって。小さい頃、子どもってよくつつじの蜜を吸うじゃないですか。

黒田 あ! あれがつつじ?

小渕 あれ、つつじです。

黒田 あれかぁ。たしかに赤やったわ。

小渕 今回は特別な花にしたくなくて。つつじは、いつでもそこにある花じゃないですか。それぐらい“いつでもそばにいた存在”というところで、つつじにしたんですよね。あと、表記を漢字にするか、カタカナにするか、ひらがなにするか最後まで悩みました。

黒田 つつじって、漢字あるの?

小渕 うん、髑髏(どくろ)みたいな漢字なんですよ(笑)。みなさんぜひ調べてみてください。まあ、これはやっぱりひらがなだなと。ちなみに白いつつじの花言葉は「初恋」らしいです。

―― 小渕さんが、とくに「書けてよかった」と思うフレーズを教えてください。

小渕 シンプルなんですけど、<あの日から続く 永い一瞬>ですね。相当な時間が経っているのに、まだ一瞬に感じる。その感覚が「霞日和」のいろんな意味を含んでいる気がして。さよならって、生きているといくつもあるじゃないですか。そのなかでも、人生に必ずある“たったひとつのさよなら”をこの歌で思い出してくれたらいいなと思いますね。

―― 黒田さんは、歌うときに共感しながら歌うわけではないんですね。

黒田 共感はしません。これが意外と大事ですよ。共感すると、共感しないところが出てくるでしょう。かといって、別に小渕の気持ちになっているわけでも、小渕の心境を想像しているわけでもなくて。この感覚はなんて言ったらいいんかな…。ただ、引きでその場面を見ている感じかなぁ。

―― とはいえ、語り部のような感覚ではありませんよね。ちゃんと“そのひと”になっているというか。

黒田 うん。引きで見ながら、展開していくものに対して、自分も盛り上がっているんですよね。物語のなかにいる、というのも違う気がするし。なんか…、小渕が書いた曲を歌うときって、乗っ取られている感じがする。アドレナリンが噴き出しているのがわかるし。多分、医学的に何かが起きているんだと思います。

―― それは、黒田さんご自身が書いた曲を歌うときも同じ感覚ですか?

黒田 それが、自分で書いた曲ではまったくそうならないんですよ。だから、全然おもしろくない。これって本当に不思議。自分のことだからつまらないんかな。小渕の曲を歌うときには、チャンネルが違いますね。あと、他のミュージシャンと一緒に誰かの曲をカバーするときもまた感覚が違って、さじ加減が難しい。「ひとの曲なのにやりすぎたらあかんかな。申し訳ないな」とか考えてしまうんですよね。

―― 小渕さんは、黒田さんの作った曲を歌うときの感覚っていかがですか?

小渕 黒田が最後に曲を書いたのは10年前なので、いくら僕でもちょっと記憶が…。

黒田 思い出せよ。記憶の小箱を開けろよ。

小渕 逆に僕はいつも、「黒田の歌を歌っていいのかな」って思ってしまいます。場面転換みたいなものが必要なときには、もちろんその歌を理解したうえで、最高のパフォーマンスをしたいけれど。黒田のなかから出てきた言葉なので、本当は黒田だけでいいなとも感じていますね。

―― 最後に、おふたりにとって歌詞とはどういう存在ですか?

小渕 歌詞は、もはや自分そのものですね。昔は自分の経験や思い出を書いている感覚でしたし、時には少し誇張したり大げさに言ったりすることもありましたが、何百曲と積み重ねてきて、それらすべてが自分自身になりました。あとは、この塊がどんどん大きくなっていくだけのことなんです。

だからこそ、僕が内側にこもって、外を見るのをやめたら、もうこの塊は1ミリも動きません。かといって、ものすごく新しいものを書いてみたいということでもなくて。ただ、日々のなかで見たものや感じたものを、自分の心身で受け止めてスケッチしていくだけ。そこに無理もないし、「こんなことを誰が思う?」って言われれば言われるほど嬉しいです。「僕はこう思ったんだ」ということだけを、書き続けていますね。

黒田 僕は、そうやって小渕が紡いだ言葉を、いちばんいい状態で届けていく役割です。綺麗に磨くときもあれば、綺麗にしないときもあるかもしれません。ただ、できるだけみんなに伝わるような形で持っていきたいものが歌詞、というふうに捉えていますね。


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