もう止まれない keep off keep off
苦労をその手に何を握ろう
Get…Get this! “All Right” Get this! “All Right”
御伽話俺たちのヒーロー
もう止まれない keep on keep on
身の程にも合うその日を願うから今 月、月下往来もっと歌詞を見る
―― 子どもの頃、歌詞やポエムのようなものは書かれていましたか?
小さい頃はまったく。ただ、大学3年生ぐらいから、夏の時期に絵日記を描くようになっていました。文字数が少ないなか何を書くか考えるのが楽しくて。ものを書くことのきっかけというとそこかもしれません。さらに、社会人になってからはスマホのメモに、「これがイヤだった」とか「これがよかった」とかちょっとした言葉を残しておくクセがついて。1行日記というか。そのメモは今でも続けていて、作詞のときにわりと大切です。
―― もう少し遡りまして、人生でいちばん最初に音楽に心を動かされた記憶というと?
すごく覚えがあるのは、NHK『みんなのうた』で流れていた、アンジェラ・アキさんの「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」かな。当時、母が僕を習いごとへ車で送迎してくれていて、その間にもよく聴いていたんです。自分はまだ小5くらいだったのですが、「僕もちゃんとこういう手紙を書けるようになるかな」と想像して。
―― 共感というより、未来を見つめられていたんですね。
小さい頃から、変にものごとを考えすぎるところがありました。「こういう言葉を書けるような15歳になるために、今を過ごしたほうがいいのかもしれない」とか思いながら聴いていましたね。あの歌は、とくに文字や言葉が大切にされているので、歌詞面でも強く印象に残っています。
―― 聴く側から、「自分も表現する側になりたい」と思った明確なきっかけはあるのでしょうか。

大学時代にアカペラサークルで、いろんなアーティストの楽曲カバーをやっていたんですね。そのなかで次第に、「自分だったらこういう表現をしたいな」、「自分なりの言葉を書きたいな」みたいなこだわりが出てきて。とはいえ、すぐオリジナル楽曲の制作活動をしたわけではなく、音楽を仕事をにしようという感覚もありませんでした。コーラスの依頼などはちょくちょく入っていたのですが、「これが仕事になったらなぁ」くらいの感覚で。
―― では、いちばん最初に作った楽曲は覚えていらっしゃいますか?
今、お話しているなかで思い出したんですけど…。大学卒業後、普通に就職したものの、自分は精神の病気になって仕事を辞めたんですね。当時、今の妻である彼女と同棲を始めたばかりで、不安しかなくて。仕事もできないし。でもそんな現実をそのまま受け入れてしまったら、自分が壊れてしまう気がしたんです。
それで、「曲を作ってみよう。歌詞を書いてみよう」って自分と彼女のためだけに作った曲があって。世には出していないのですが、それが僕のなかで初めてちゃんと書いたオリジナル楽曲だと思います。その曲がなかったら本当に危なかった。
―― 生きるために作ったのが最初の1曲だったのですね。その後、本格的に音楽活動をスタートされて、音楽が本業に。
はい、ありがたいことに。今、そちらに座っているレーベルのスタッフさんがサークルの先輩で、声をかけてくださったんです。とりあえず1曲目「Tiny」は、僕のわがままで作ってみて。そのあと、2曲目「死ぬな!」を一緒に作ったら、そこから曲がいろんなひとに届いていきました。それで、「これを仕事にしよう」というよりは、「これを仕事にしなければいけない」という使命感のようなものが生まれていった感覚ですね。
―― 仕事を辞めて音楽を始めたことも、音楽の仕事に就いたサークルの先輩が声をかけてくださったことも、どこか運命のようですね。こうなるようになっていたというか。
まさにそうなんです。そういえば、就活をしていたとき、会社の最終面接で人事の方と長時間お話をする機会があったんですね。そこで言われたことを今でも覚えていて。「菅生さん(本名)は、本当にうちの会社でいいんですか? 今までの人生のお話を聞いていると、お兄さん(菅田将暉)への憧れがあったり、ADのバイトをされていたり、アカペラサークルで表に立たれていたり、無意識のうちに芸能に引き寄せられていますよね」って。
―― 鋭い方ですね。
「本当はそっちがやりたいんじゃない?」と言われて、図星を食らった感じがしたし、言葉が刺さりました。でも、最終面接だから落とされたくなくて、「いや、そんなことないです! 自分はこの会社に入りたくて…」と必死で面接に戻りましたけど(笑)。やっぱり音楽がやりかったし、やるべきなのだと今、すごく納得しています。
―― また、アーティスト名は、会社員としての自分を“あっちのけんと”、アーティスト活動をする自分を“こっちのけんと”と区別するところからつけられたそうですね。ご自身のなかで“あっち”と“こっち”はかなり乖離している存在でしたか?
まったく違う存在でした。スーツを着て、ネクタイを締めて働いている自分は、もうひとつキャラクターを作らないとできない感覚で。ひとにものを教えるような仕事だったので、新入社員でそんなに知識もないなか、目上の方にも教えなければならない。「申し訳ないな」と感じながらやっていたし、自分がやっていると思いたくなかった。だからアウェイな存在として“あっちのけんと”という役を自分が演じるような気持ちだったんですよね。
―― 2022年に“こっちのけんと”としてアーティストデビューをされて、2024年に「はいよろこんで」が大ヒットし、紅白初出場などを経て今に至る。このスピード感はご自身にとっていかがですか?
遅いけど、早い。というのも、兄が16歳でデビューをして、すぐに菅田将暉という俳優として花が開いていたのを間近で見ていたので。自分の場合、18歳で上京して、大学時代を過ごして、23歳で就職をして、仕事を辞めて音楽を始めたのが25~26歳。正直、「もう遅いかぁ…」と思っていました。でもやるしかなくて、音楽を始めてみたら今に至る。そこの体感はすごく短い感じもしますし。
―― 怒涛の2024年をどのように眺めていらっしゃいました?
今となっては、「本当によくやれたな」という気持ちがあります。だけど当時は、僕もチームのみんなも多分、忙しいとも思っていなくて。すべてが初めてで、「こんなチャンスは二度とない」というありがたい毎日だったんですよ。一歩ごとにステーキのようなごちそうが置いてあって、それをおいしいおいしいと食べ続けていたら、宝物を見つけた感覚。だから頑張れた理由も、「だって目の前においしいものがいっぱいあったから」みたいな。
―― とはいえ、今年の頭にいったん活動のセーブを発表されました。「おいしいおいしい」と進む一方で、「このまま進むとマズいぞ」という感覚もあったのでしょうか。
そのとおりですね。「さすがに目の前のステーキばかり食べ続けていたら胃もたれするかもな」という危うさは、去年の10月くらいから感じていて(笑)。そのあたりから自分のなかで、「来年から休みます」とかではなく、「これ以上先のことは考えず、とにかく今年の紅白だけを目指して頑張りましょう」みたいな気持ちが生まれました。
それを達成したとき、自分自身もずーっとバタバタしていたけれど、自分を支えてくれているみんなにも休みがなかったなとようやく気づくことができて。「みんなで休まないと」という判断をして、少し活動のペースを落とさせていただきました。やっぱりあのまま進んでいたら、心身ともに危なかったんじゃないかな。
―― お話を伺っていると、常に俯瞰してご自身を見つめられている面があり、「これは危ない」「こうすると自分はやりやすそうだ」というコントロールをしっかりされていますよね。
ああー、そういう感覚がすごくありますね。最近、妻にも同じようなことを言われてハッとしました。小さい頃から“もうひとりの自分”がいるんです。「菅田将暉の弟」という自認があったから、常にそこを意識していたというか。「菅田将暉の弟だったら、悪いことはしないし、勉強はちゃんとするし、赤信号では絶対に渡らない」みたいな。
それが今も名残としてあって。こうして喋っているときも、「それは本当に話していいことか?」とジャッジしている自分がいる気がします。でも、それを不自由に思っているわけでもなくて。ずっと“そういうもの”と思ってきた自分ルールだから。そのルールのなかで生きるのが当たり前すぎて、ストレスにさえ感じないんですよね。
―― アーティスト・こっちのけんとが確立されたことで、「菅田将暉の弟だったら」という意識が薄れていく感覚はありますか?
薄れるというより、「菅田将暉の弟だったら」という意識のまわりに、「こっちのけんとだったら」という膜ができた感覚です。だからどちらにせよ“もうひとりの自分”はいるんですよ(笑)。ただ、優先順位が変わった。「こっちのけんとだったら、こういうことをやるべき」あるいは「こういうことはやらないほうがいい」という目を第一に自分を見ていますね。できるだけ間違いたくない、という思いはずっとある気がします。