このコーナーでは、当時のランキングやエピソードと共に、「ザ・ベストテン」に出演した歌手のヒット曲を紹介していきます。第21回は1985年8月22日のランキングを紹介。
今月のスポットライトは、玉置浩二のソウルフルなボーカルと美しいメロディ、都会的なサウンドで数々のヒットを生み出した、安全地帯の「悲しみにさよなら」を取り上げます。
洗練されたサウンドと唯一無二のボーカルによる、大人のロックバンド
spot_photoです。

 北海道旭川市で、玉置浩二が中心となって1973年頃に結成されたのが安全地帯。メンバーチェンジや別バンドとの合併を経ながら実力を伸ばし、ヤマハのポプコン本選に何度も出場するなど、北海道を代表するアマチュアバンドに。1981年に井上陽水と出会って実力を認められ、バックバンドとして全国ツアーに同行。1982年に「萠黄色のスナップ」でメジャーデビューした。

 1983年、4枚目のシングル「ワインレッドの心」を発売。サントリー「赤玉パンチ」のCMソングに起用されて人気に火がつき、翌年にかけて大ヒットする。ザ・ベストテンには84年2月23日、第10位で初登場。レコーディングスタジオからの中継で歌い、以後12週ランクインした。きらびやかな衣装で歌うアイドルが全盛だった当時、メンバー全員がきっちりとしたダークスーツを着た安全地帯は異色の存在だった。玉置浩二は当時25歳。口数が少なく、歌う時は笑顔を見せず、常に苦しげな表情で歌う彼も、ボーカリストとして異彩を放っていた。ほぼ同時期に人気が出始めたチェッカーズが、バンドでありながらアイドルグループのような魅力も持ち合わせていたのとは対照的である。

 続く「恋の予感」も、年をまたいで8週間連続で第3位にとどまり続けるなどヒットし、一躍全国にその名が知れ渡った。85年には初の武道館コンサートを実施、さらに香港へも進出するなど活動の場を広げていく。最初のヒット「ワインレッドの心」「恋の予感」は井上陽水の作詞だが、その後はアルバム・シングルともに、松井五郎の詞、玉置浩二の曲というコンビで、数々の名曲が生み出されていった。

 「悲しみにさよなら」は9枚目のシングル。それまでの作品がすべてマイナー調だった中、これは彼らにとって初めての、メジャー調の優しげな曲であった。ザ・ベストテンでは8月22日に第1位に。前作「熱視線」で初の1位になった時は香港にいたため、この時、番組恒例の1位を祝うくす玉を初めて割ることになった。以降、6週連続で1位をキープ。13週にわたってランクインする大ヒットに。年末の大感謝祭(85年12月26日)では、「悲しみにさよなら」が年間ベストテンで堂々の1位に輝いた。女優・星由里子が花束を持ってお祝いに。これは安全地帯が主題歌を担当するTBSドラマに出演している縁からだった。さらにデビュー前から彼らの活動を支えてきた旭川の恩人・木内和博氏が駆けつけ、メンバーは大感激。この曲で、85年末のNHK紅白歌合戦にも初出場し、80年代を代表する人気グループに成長していった。

 憂いを帯びた曲調にのせ、吐息混じりに、狂おしい表情で歌う玉置浩二には、男女の別を越えた妖艶なセクシーさがあった。その日本人離れしたソウルフルなボーカルは、歌番組やライブでも絶対に音程を外さず、常にCDと同等以上の歌を聴かせた。またメンバーの極めて高い演奏技術も特筆すべきだろう。決して目立ち過ぎず、ボーカルを引き立てることに徹していたからこそ、美しいメロディ・驚異的なボーカル・洗練されたサウンドがバランスよく調和した、大人のためのロックバンドたり得たのだ。

 安全地帯は何度か活動休止期間を経ながら、解散はせず現在も存続。屋台骨を支える玉置浩二は、その音楽の才能とは別に、私生活が何かと話題になることも多かった。しかしソロ活動も含め、彼の生み出す作品のクオリティは依然として高い。2010年に安全地帯が6年ぶりに活動再開した時、玉置はちょうどマスコミ報道の渦中にあったが、ツアーを見た観客の多くは、口を揃えてライブを絶賛。あらためて彼らの素晴らしさを思い知ったのだった。完成度の高い彼らの作品群は、今後も若いミュージシャンに影響を与え続けるだろう。

ザ・ベストテン☆エピソード
玉置浩二は学生時代に野球部でピッチャーをやっており、大のプロ野球好き。
そのため、当時の安全地帯のベストテン出演時のトークは、野球の話題になることが多くありました。1984年12月27日放送の年末特番では、「ワインレッドの心」が年間第5位に。巨人ファンの玉置のために、花束を持って祝福に駆けつけたのは、当時の巨人軍エースの一人、西本聖選手。憧れのピッチャーを目の前に、玉置は笑顔で目を輝かせていました。黒柳徹子に請われ、なぜか互いに投球モーションを披露させられる場面も。
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