椎の実のママへ

漢口の春は 大使館の柳の青
それから池の降る その花の白
甘露園のコール・コーヒー越しに
うちあけられた愛 それが春

漢口の秋は 焼き栗のはじける香り
読み終えた文庫本で うけとめた愛
かぞえの二十二で嫁いでそのまま
終戦を迎え だから秋

天津からひきあげたあと七年たって彼女にとって初めての
そして最後の子供を産んだ
夫は優しくて働き者だったから 誰もが彼女を幸福とよんだし
確かに幸福なはずだった

いくつかの春は 知らず知らず人を変え
淡い思い上がりが その心を変え
煙草とコルトレーンの中で二度目の恋をみつけて
それも春

ひとつ屋根の下で やがて別の愛
それぞれが違う 愛を過ごして
一人息子だけが取り残される形で
終わるも愛 つまり秋

みんなの謗(そし)りの中で 彼女は故里の長崎へ帰り
小さな喫茶店をはじめた
「椎の実」のママを慕って沢山の若者達が集まって
「椎の実」はいつでも 煙草とコルトレーンで一杯だった

僕と同い年の一人息子は おきまりの様に
ビーチボーイズを聴き乍ら一度ぐれたが
自分の足で歩き出す迄に随分迷ったけれど
やがて歩き出した
彼は父親を愛するのと同じ位に
母親を愛していたし
僕はそんな彼が大好きだった

長崎の春は黄砂と凧(はた)上げ
一人息子は母と暮らすと決めた
小さな店のカウンターに二人で
立てたらいいねと そんな春

彼がもうひとつの 愛を手にした頃
母は突然に病いをみつけた
癒るはずのない病名を知らされて
立ちつくしたのは それも春

まさか彼が母より先に まさか逝っちまうなんて
誰も思わなかった だって恋人と海に出かけて
オールを流されて 飛び込んだまま
だって昨日まで 元気だったんだもの

母は嘆き悲しみ出来るなら私とひきかえにと
今までを悔やんだ
ねェ早かったよ ねェ早過ぎたよ

僕は彼の為に 唄を作った……

ジャズとクラシック以外は耳を貸さなかった彼女が
僕の唄を愛する様になったのはこの頃だった
自分の残り時間のすべてをかけて 息子の為に祈り
それと同じ位に 僕を 僕の唄を愛した

三度目の手術の後は 彼女の生き甲斐だった
お店にも立てなくなってしまい
それでも生きようとしたのは
この時初めてひとつになった 彼女の兄弟達の心と
死んだ息子の為だったと思う

思い起こせば 誰も彼も皆
本当はとても愛し合っていた
わずかなすれ違いが物語を
変えてしまうなんて それも愛

椎の実のママが 死んだ晩に
みんな同じ色の涙を流した
結局愛されて死んでいった彼女は
幸福だったと 思っていいかい

ねェ愛されて死んでいったあなたは
幸福だったよね そうだよね

さよなら 椎の実のママ
さよなら 僕のおばさん
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