第82回 エレファントカシマシ「俺たちの明日」
photo_01です。 2007年11月21日発売
宮本浩次という男の印象

 初めてエレファントカシマシの宮本に会ったのは、バンドがデビューして間もない頃だ。取材場所にひとりで現れた彼は、椅子に座り、そのまましばらく動かなかった。表情は怒っているように思え、一瞬、“コイツはけんか腰なのか”と身構えた。そうではなかった。インタビューの最初の質問に、集中してくれてたのだ。


時は80年代の後半、というか、終わりの頃だった。他のアーティストはバブル景気の匂いにつられ、男も肩パットの入ったジャケットで、華美なオシャレをするのが普通になっていく。いっぽうの宮本は、ジャケットはジャケットでも、アウトロー映画の主人公のような、肩がすとんとした、そんなのを着ていた(あとから知ったが、それは親父のお下がりだったそうだ)。デビュー曲「デーデ」は、モロに拝金主義を皮肉る歌だった。

その後、バンドに降りかかった様々な出来事を、ここに細かく書くスペースはない。しかし、ここ最近もたまに楽屋で挨拶する宮本の印象は、あの頃と変わらない。そりゃ彼も、エンターテインメントの世界に慣れてきたところはあるのだろう。

でも、世に言う“丸く”はなってない。鋭利なところは鋭利なままである。表現者として、いっさい妥協はしないところなど、まったく変わっちゃいないのだ。もし変わったことがあるとしたら、鋭利な部分はそのままに、世間に対し、それを活かす術を学んだということだろう。

彼らが歌うさまざまな明日

 エレファントカシマシの作品には、「明日を行け」や「明日に向かって走れ」など、そんなタイトルが比較的多い。さらに、歌詞の中にもしばしば“明日”が登場する。他のアーティスト含め、もちろん頻繁に使われる言葉ではあるが、彼らの歌のなかのそれは、他とは違う光沢を放つ気がする。

「明日を行け」では、未来を表す“明日”である。「明日に向かって走れ」には、今日の連続線として登場する。僕が大好きな「Baby自転車」のなかにも出てくるが、この歌の場合、暦のことじゃなく、瞬間瞬間を大切に生きる尊さを伝えるため、“明日”という言葉が使われる。

そして今回は「俺たちの明日」である。リリースされた2007年当時、ハウスの「ウコンの力」のCMとして、茶の間にも頻繁に流れていた。この作品のなかで、“明日”はどう輝いているのだろう。でも実は、歌詞に“明日”は出てこないのである。それが大切なのは自明のことなので、あえて言葉にしてない、という解釈も出来る。

宮本に言われるからこそ「頑張ろう!」と思う

 この歌は、オレとオマエの物語だ。二人は仲良くツルんでいた時期を経て、いまは別々の場所に暮らしている。その相手に対して、まず歌の冒頭で、こう叫んでいる。[さあ がんばろうぜ!]。

曲の構成としては、このようにサビから始まっていく。“さあ”は誘(いざな)いであり、オレも頑張るからアンタも頑張ってよ、ということだ。時には鬱陶しくも響く言葉だが、宮本が歌えば押し付けにならず、爽快に届く。もしもどこかの調査で、「励ましの言葉をかけて欲しい有名人ランキング」みたいなのがあったなら、宮本は上位入賞確実ではなかろうか。

そもそもこの言葉。彼に合っている。“頑張ろう”は“ガ”や“バ”という破裂音系の発音を含む。気っ風のいい歌い方や声質に、合っているのだ。

これまでの人生をディケイドごとに振り返る

 実はこの歌、さらに歌詞コラムとして注目すべき部分がある。ツー・コーラス目に入ったとこで、10代、20代、30代と、個人史をディケイドごとに振り返るパートである。この作品は、彼が不惑の齢、40歳の節目を越えた頃に書き下ろされている。

10代は[世間を罵り]とあり、20代には[町を彷徨い]とある。さらに30代では[愛する人のためのこの命]であることに気付くという、そう、無私の愛への目覚めが記されている。このあたり、発表順に並んだ彼の作品リストと照らし合わせてみるのも一興だろう。

限られた文字で、それぞれの10年を振り返るのは至難の業だけど、これも歌を書く人間の宿命だし、彼は見事にやり遂げたと言えるだろう。今ではこの歌から、さらに10年以上経過している。まだまだ早いだろうが、40代、50代、その先と、その後を歌い込んだ「俺たちの明日II」も、いずれ聴いてみたいものである。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

今年の花見はまず散策しつつ楽しんで、でも食事は、お店で済ますパターンも浸透しているそうな。もちろん人気のところは場所取りがたいへんだからだろうが、もうひとつ、テレビで花見というと、やたらトラブルの場面を映すので、花見会場=危険な場所という、そんな刷り込みが生まれた結果ではなかろうか。ちなみに私は、どうも(シートはひくとはいえ)地べたに座って飲食することに積極的になれないので、楽しそうに花見の宴会をしているヒトを花と一緒に眺めているだけで、じゅうぶん満足なのでした。