第61回 鬼束ちひろ「月光」
photo_01です。 2000年8月9日発売
 あれは忘れもしない2003年8月19日。赤坂のサントリー・ホール。普段はクラシック専門の会場だが、当時はたまに、ポップス系アーティストのライヴも行われていた。言うまでもなく、素晴らしい音響のホールである。その日の主役は鬼束ちひろ。ピアノと弦楽カルテットを従え、彼女は歌った。
震えた。客席に居て、心も体も震えっ放しだった。職業柄、凄い歌をたくさん聴いてきた。しかしこれほどのものは10年に一度、いや…。


“このヒトじゃなきゃ歌えない”を持ってる人は特別

 そういうアーティストは、いつしか聴き手である我々の心の奥底に、しっかり宿っているものだ。時間が経っても記憶の渦に埋もれず、ふとした瞬間、鈍いシグナルのような光を発し、こちらに訴えかけてくる。そうなると、無性に歌声が聴きたくなる。

彼ら、彼女らに特徴的なのは、魂から歌っている、ということ。英語にすればソウル。ただ、ソウル・ミュージックはアメリカの黒人の音楽で、例えば白人のカントリーなどとの差異的な特徴として語られる。
それに比べ、日本で“魂”の歌と言った場合、ジャンルなどない曖昧といえば曖昧なものである。この場合、スタイルにとらわれないもっと広範囲のハナシとして、そのヒトの歌に、そう感じる瞬間がありさえすれば、それこそが紛れもなく…、なのである。今回の主役、鬼束ちひろの歌は、まさにそんな瞬間を、ばちばち何度も感じさせてくれる歌なのだ。

もちろん、みんなボーカリストはそれぞれに魂を込めて歌っている。ただ、歌が湧き上がるのは同じ場所、そう、ココロの辺りだとしても、それが我々に届くまで、様々な場所を経由し、劣化というか減速というか、つまり肝心要のものが、弱まっちゃってることも多い。
しかし凄いボーカリストの場合、それがゴロリと届く。まるでそのヒトの魂の、地肌までもが見えるかのように届くから、こちらはつい、皮膚反応を起してゾワッとする。僕が「月光」という歌を初めて聴いたときが、まさにそうだった。

こんな崇高な歌い出しのJ-POPは、めったにないのである

 石造りの建物にこだまするようなピアノの音色に続き、すべての労苦が沈殿させ、その上澄みを掬い取るがごとき彼女の声が届いてくる。歌い出しの集中力がすごく、瞬時にココロを掴まれる。でも改めてこの作品のオリジナル・ヴァージョンを聴いてみると、(その後のライヴ・パフォーマンスは様々に発展しただろうけど)特別エモーショナルに歌唱しているわけじゃないのである。あなたも聴いてみて欲しい。

ブレスが少なく、歌うのに難しいところもある作品だが、そんな時は、むしろ彼女は、正確な声のコントロールを心掛けている印象だ。けして勢い任せのこけおどしではないことが、改めて聴いてみると、よく分る。
でも歌詞は凄い。サビから始まる冒頭が、いきなり[I am GOD'S CHILD(私は神の子供)]だ。これ以上ないくらい、予想外なところから入ってくる。さらにハッキリ耳に輪郭を残した言葉は、そのあとの[腐敗した世界]であって、再び英語フレーズとなり、[生まれたんじゃない]もハッキリと届いた。ただ、こうして書いているけど、冒頭の英語詞は、すぐさま聞き取れたわけじゃなく、あとから歌詞カードを見て、認識した次第だ。

普通、神の子供といえばキリストさんのことだろう。この歌のMVには、十字架が浮かんでは消える画像処理の演出もなされていた。ちなみにキリスト教の根本的な考えとして、「原罪」、ということがある。つまりはそんな歌なのか? しかしこの話題で突き進むと、僕の手には負えない見識が必要なので、あっさりここで、やめておく。

ただ、この歌が抑圧された現代社会からの解放のようなことをテーマにしているのは、すぐ分る。特に[突風]で[倒れそう]なのに[この鎖]が許さない…、というあたりのフレーズは、実に鋭い表現である。世の中に巣食う、根本的な矛盾を描いているように思う。

[突風]が吹いたなら、いっそ倒れたほうがせいせいする。再び起き上がり、やり直せばいいわけだし…。でも鎖がそうさせてくれない。なんてこった。やるせなさがどんどん鬱積していくだけだ。彼女が十代の終りに詞・曲ともに書いた作品だが、このフレーズはドキッとするほど素晴らしい。よく閃いたものである。

やがてこの歌に登場する救世主は?

 [I am GOD'S CHILD(私は神の子供)]であるなら、主人公こそが救世主、であるはずなのだけど、この歌にはやがて、[貴方]という他者が登場する。ただ、このあたりは様々に受け取れる比喩表現となっていて、[貴方の感覚]が散らばるのだけど、主人公は[片付けられずに]いるのである。また、主人公が[貴方]に救い出して欲しいと願っているのは[静寂]から、である。[最後(おわり)]は、終末思想的雰囲気だ。

さて、どう解釈すべきだろうか。おそらく、他者からの救いは自分の周囲に渦巻いているのだろうけど、なかなか殻を破れず、決められず、それを掴むことが出来ない状態だろう。彼女の現在地が[静寂]で、そして[一体何を信じれば?]というのが、まさにふと出た呟きだ。

こういう風に書いていくと、まったく救いがないようにも思えるが、この歌を聴いている最中の心持ちというのは、むしろ逆だ。祈り&癒やし成分が、温泉の効能のようにじんわりじんわり染み込んでいくのだ。辛いより気持ちいい。全体から醸し出される、ホーリィーな雰囲気も手伝ってのことかもしれない。

なぜタイトルは「月光」なのだろうか

 歌詞のなかに“月光”という言葉は出てこない。それを連想させる表現もない。ではなぜ、この歌はこうしたタイトルなのだろうか。音楽の世界でこの言葉から連想するのは、ベートーベンのピアノ・ソナタだが、曲が類似するのかというと、そんなことはない。ただ、仮タイトルとして、なんとなく連想としてそんな雰囲気が浮かんで、それがそのまま最終的なタイトルとなった、という可能性も、まったくゼロではないだろう。

 あともうひとつ、このタイトルは、歌われている現状の、少しその先を予感させている、という捉え方だ。月明かりはよく、ヒトの本性を映し出すと言われる。つまり[居場所なんて無い]と歌う主人公にも、そろそろ殻を破る兆しが訪れているのかも、という解釈だ。本当の自分を見つけるための、それを指し示す、まだ僅かな光量だけど、確かな光…、それはすでに頭上で輝いている…、という、そんなポジティヴな捉え方である。個人的にはそう思いたい。

この歌が好きな人は五万と居るだろうし、みなさんそれぞれ、自分のイメージをお持ちだろうけど、僕からは、こんな解釈を提出しておくことにする。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

文章を書くことと歌が大好きだったこともあって、音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。でも新しい才能と巡り会えば、己の感性は日々、更新され続けるのです。
梅雨の季節はシンドイですが、C&Kとか聴いてると、なんか部屋が快適な気がする今日この頃。そして雨の日は家で読書、というのはどうでしょう。でもって「なんか面白い本ないかなぁ」と探していたら、ありましたありました。昨年出版されたものですが、タイトルはズバリ、『〆切本』(左右社)。夏目漱石から村上春樹、西加奈子まで、90人の書き手の〆切に関する話を94篇収録してあるのです。いやはやこれは企画力の勝利じゃ! 僕は高名な作家さんのようなプレッシャーを感じたことなど一度もないですが、毎日のように〆切りというのが迫り来る日々を過ごしているのは同じなので、身につまされる想いで手に取ったのでした。