第42回 B'z「いつかのメリークリスマス」
photo_01です。 1992年12月9日発売
 さて今回は、クリスマスも間近ということで、B'zの「いつかのメリークリスマス」を取り上げることにしよう。様々あるこの季節のスタンダードのなかでも、とても根強い人気の曲だ。曲名を目にしただけで、すでにウルウル来てる人もいるかもしれないけど、ホント、この歌は何度聴いてもぐっとくる。とっても映像的というか映画的というか、まぁこういう例え方は陳腐かもしれないけど、この歌に関しては真の意味でそう言えるとも思う。さらにタイトルに“いつかの”とあるのも、実は重要だったりするわけだ。そのあたり、これから歌詞を追いながら見ていくことにしたい。なお作詞は稲葉浩志。作曲は松本孝弘である。


その幸せはもはや残像なのだと(突如)知らされる

 まずこの歌は冒頭からしてイイ。12月の“あかり”は[ゆっくりと]灯り始めるのである。イメージされるのは、点灯すればパッと全体が輝くLEDではなく、電気が伝わった順番に徐々に灯っていく豆電球…。でも、もうひとつの解釈としてはこうだ。誰とはなくところどころでクリスマスの準備が進み、やがて街が光に溢れるさまが[ゆっくりと]、ということ…。受け取り方はご自由に。さらに次の一行も非常に良いのだ。普段は慌ただしくても、この季節は誰もがこの街を[好きになる]と歌っている。確かにそう。

で、ここまではどちらかというと静かな風景描写なのだけど、そこに鮮やかに動きが加わる。灯りに溢れた街を、主人公は走り抜ける。プレゼントを抱え、彼女のもとへと急ぐのだった。一方その頃、彼女は家にいて、腕によりを掛けたご馳走を準備万端、というところだろうか。シャンパンもコルクの金具だけを外し、あとは抜くだけ、だったりして。いやこれまったくの想像だけど。
でも…。でも次の瞬間、突如ここで、それまでの“映像”が、ふいにプツリと切れるのだ。サビになって判明するのは、幸せだった日々はもはや残像でしかない、という真実だ。ここから先の歌詞は、コトバの時制も過去形が覆い尽くすこととなるのだが、聴き手はハッとさせられる。目の前にあるはずのクリスマスの楽しい光景は、実はすでに色褪せたものだと知る。

通常、このパートは身も心もシュンとしてしまって、表現としては線が細くなりがちだ。でも稲葉浩志のボーカルは破格である。蝋燭の焔がふわっと風に煽られ消えかかるようで、でも持ち直し逞しく燃えさかるような、そんな歌声が続く。聴く者を感涙へと誘う。痛いほどにドラマチック。それがこの歌なのだ。
「現在」を描写することからスタートして、ふと遠い目になり「過去」へとタイムスリップ、というのはよくある。でも、てっきり現在進行形だと思っていたことが実は「過去」だったと、(ある意味、残酷に)知らされるのがこの歌のポイントで、そんな歌詞構成が、見事な効果を生んでいる。

さらに素晴らしいのは、ワン・コーラス目でこんな種明かし(?)をしつつ、ツー・コーラス目でも再びそれを繰り返すことである。[歌いながら線路沿い]は、電車を降りてからの彼女の家への道順。何気ないけどここも実に映像的であり、さっき主人公が降りた電車は、急ぐ彼を追い抜いていったのかもしれない、といった想像をかき立てる。主人公は合い鍵でドアを開けて、その隙間から買ってきたプレゼントを見せる。僕がさきほど想像した通り、彼女は忙しげに夕食を準備している最中だ。でも、我々はすでにワン・コーラス目で事の顛末をしっている。そんな光景も、すでに色褪せた過去のものであることを。でも知っているからこそ余計に、この描写に胸が熱くなるのだった。

買ったプレゼントが「椅子」というのが効いてる

 歌を聴いたことがある方はもちろんご存知だろうが、主人公が彼女へのクリスマス・プレゼントとして買ったのは、彼女が欲しがっていた椅子だ。でもそれは、そこかしこで売られているものではないのだろう。趣味のいいセレクトの輸入家具やさんの一点物などを想像する。それを閉店間際に駆け込みで無事ゲットする主人公。なぜ閉店間際になったのかは、おそらく仕事で多忙だったからではなかろうか。街はクリスマス・ムードでも年末は忙しい。そしてプレゼントを、電車という交通手段で彼女の家まで運ぶ。通常、椅子はかさばるし、ラッシュ時だったら尚更タイヘン。でもそこまでして、彼女が一番欲しかったものを届けようとする。

クドいようだけど、プレゼントはブレスレットとかじゃなくて椅子である。このあたり、稲葉浩志の作詞センスの賜物だろう。あえて生活感があるものを出してきている。彼女はそこに座って読書などするのかもしれないし、主人公が訪ねたときには彼も座るのかもしれない。もしこのまま二人が家庭を持つに至ったら、そのまま二人の生活に溶け込むのかもしれない…、と、つまり椅子は、二人の未来を担ったものでもあったわけだ。なので余計、一番の座り手である彼女を失ったことが悲しい。

ひとつ気になるのは、[がむしゃらに夢を追いかけた]というフレーズだ。この恋が終りを告げた原因は、もしやここにあるのかもしれない。実はこの“夢”は、二人共通で追いかけたものとは違ってて、結果、彼女は自分が蔑ろにされたと感じたかもしれない。歌の主人公は、実はその夢は叶えることが出来たけど、大切な人を失ったのかもしれない。いや、そういうことにしておこう。夢も叶わず彼女も居ないなら、12月の風は冷たすぎる。
歌のエンディングも実によく出来ている。[立ち止まってる僕]を、荷物抱えた誰かが足早に通り過ぎるという、そんなシーンで終わる。もしかして立ち止まっているのは回想シーンの自分ではなく、今現在の自分で、通り過ぎた自分はあの時の椅子を抱えた自分だったのかもしれない。だとしたら呼び止めて、なにかコトバを掛けていたら、この恋の行方も違ったものになったかも…。まあここまでいくと、考えすぎかもしれないけど。
最後に曲のタイトルのことを。この歌に描かれたエピソードは、今では懐かしき想い出に変わりつつあるからこそ“いつか”と呼べるものなのだと思うのだ。そんな柔らかな暖かみとともに、この歌は終わっていくのだった。
小貫信昭の名曲!言葉の魔法 Back Number
プロフィール 小貫 信昭  (おぬきのぶあき)

文章を書くことと歌が大好きだったこともあって、音楽を紹介する職業に就いて早ウン十年。
でも新しい才能と巡り会えば、己の感性は日々、更新され続けるのです。
ここ最近、“対バン”を続けてふたつ観た(といっても両方ともMr.Childrenが登場するものだが)。
ひとつは彼らがアジカンを招いてのもので、もうひとつは彼らがRADWIMPSに招かれてのモノ。
でもバンドって、つくづくドラムの個性が大きい。
彼らが叩き始めなければ、音楽という“時間”も動き始めないのだから当たり前なのですが。